・・・とて、無色無形の実体にて、間に髪を入れず、天地いつくにも充満して在ませども、別して威光を顕し善人に楽を与え玉わんために「はらいそ」とて極楽世界を諸天の上に作り玉う。その始人間よりも前に、安助とて無量無数の天人を造り、いまだ尊体を顕し玉わず。・・・ 芥川竜之介 「るしへる」
・・・お蔦 私より貴方は……そうね、お源坊が実体に働きますから、当分我慢が出来ましょう。私……もう、やがて、船の胡瓜も出るし、お前さんの好きなお香々をおいしくして食べさせて誉められようと思ったけれど、……ああ何も言うのも愚痴らしい。あの、それ・・・ 泉鏡花 「湯島の境内」
・・・男女の話声が水口の水の音だとわかっていながら、不可抗的に実体をまとい出す。その実体がまた変に幽霊のような性質のものに思えて来る。いよいよそうなって来ると私はどうでも一度隣の湯を覗いて見てそれを確めないではいられなくなる。それで私はほんとうに・・・ 梶井基次郎 「温泉」
・・・K君の心では、その船の実体が、逆に影絵のように見えるのが、影が実体に見えることの逆説的な証明になると思ったのでしょう。「熱心ですね」 と私が言ったら、K君は笑っていました。 K君はまた、朝海の真向から昇る太陽の光で作ったのだとい・・・ 梶井基次郎 「Kの昇天」
・・・何とか云われているものの、本は云わば職人で、その職人だった頃には一通りでは無い貧苦と戦ってきた幾年の間を浮世とやり合って、よく搦手を守りおおさせたいわゆるオカミサンであったのであるし、それに元来が古風実体な質で、身なり髪かたちも余り気にせぬ・・・ 幸田露伴 「鵞鳥」
・・・ その実体には、もとより、終始もなく、生滅もないはずである。されど、実体の両面たる物質と勢力とが構成し、仮現する千差万別・無量無限の形体にいたっては、常住なものはけっしてない。彼らすでに始めがある。かならず終りがなければならぬ。形成され・・・ 幸徳秋水 「死刑の前」
・・・ 其実体には固より終始もなく生滅もなき筈である、左れど実体の両面たる物質と勢力とが構成し仮現する千差万別・無量無限の個々の形体に至っては、常住なものは決してない、彼等既に始めが有る、必ず終りが無ければならぬ、形成されし者、必ず破壊されね・・・ 幸徳秋水 「死生」
・・・ 青春、その実体はなんだか私にもわからないが、若い頃という言葉に言い直せば、多少はっきりして来るだろう。その、青春時代、或いは、若い頃、どんな雰囲気の生活をして来たか、それに依って人間の生涯が、規定せられてしまうものの如く、思わせるのは・・・ 太宰治 「『井伏鱒二選集』後記」
・・・さんが、はじめて私どもの店に来ましたのは、昭和十九年の、春でしたか、とにかくその頃はまだ、対米英戦もそんなに負けいくさでは無く、いや、そろそろもう負けいくさになっていたのでしょうが、私たちにはそんな、実体、ですか、真相、ですか、そんなものは・・・ 太宰治 「ヴィヨンの妻」
・・・女の、そのままの実体を、いつわらずぶちまけたら、芸術も何も無い、愚かな懸命の虫一匹だ。人は、息を呑んでそれを凝視するばかりだ。愛も無い、歓びも無い、ただしらじらしく、興覚めるばかりだ。私はこの短篇小説に於いて、女の実体を、あやまち無く活写し・・・ 太宰治 「女の決闘」
出典:青空文庫