・・・慎太郎はその時まざまざと、今朝上りの三等客車に腰を落着けた彼自身が、頭のどこかに映るような気がした。それは隣に腰をかけた、血色の好い田舎娘の肩を肩に感じながら、母の死目に会うよりは、むしろ死んだ後に行った方が、悲しみが少いかも知れないなどと・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・この十円札を保存するためには、――保吉は薄暗い二等客車の隅に発車の笛を待ちながら、今朝よりも一層痛切に六十何銭かのばら銭に交った一枚の十円札を考えつづけた。 今朝よりも一層痛切に、――しかし今朝よりも憂鬱にではない。今朝はただ金のないこ・・・ 芥川竜之介 「十円札」
或曇った冬の日暮である。私は横須賀発上り二等客車の隅に腰を下して、ぼんやり発車の笛を待っていた。とうに電燈のついた客車の中には、珍らしく私の外に一人も乗客はいなかった。外を覗くと、うす暗いプラットフォオムにも、今日は珍しく・・・ 芥川竜之介 「蜜柑」
・・・ それきり小僧とは別の客車だったので顔を合わさなかった。が彼は思いもかけず自分の前途に一道の光明を望みえたような軽い気持になって、汽車の進むにしたがって、田圃や山々にまだ雪の厚く残っているほの白い窓外を眺めていた。「光の中を歩め」の・・・ 葛西善蔵 「贋物」
・・・ 華ばなしい光の列が彼の眼の前を過って行った。光の波は土を匍って彼の足もとまで押し寄せた。 汽鑵車の烟は火になっていた。反射をうけた火夫が赤く動いていた。 客車。食堂車。寝台車。光と熱と歓語で充たされた列車。 激しい車輪の響・・・ 梶井基次郎 「過古」
・・・ 眼下の線路を玩具のような客車が上りになっているこっちへ上ってくるのが見えた。疲れきったようなバシュバシュという音がきこえる。時々寒い朝の呼吸のような白い煙を円くはきながら。 * その暮れ方、土工夫らはいつものように・・・ 小林多喜二 「人を殺す犬」
・・・ 福島を過ぎた頃から、客車は少しすいて来て、私たちも、やっと座席に腰かけられるようになりました。ほっと一息ついたら、こんどは、食料の不安が持ちあがりました。おにぎりは三日分くらい用意して来たのですが、ひどい暑気のために、ごはん粒が納豆の・・・ 太宰治 「たずねびと」
一九二五年に梅鉢工場という所でこしらえられたC五一型のその機関車は、同じ工場で同じころ製作された三等客車三輛と、食堂車、二等客車、二等寝台車、各々一輛ずつと、ほかに郵便やら荷物やらの貨物三輛と、都合九つの箱に、ざっと二百名・・・ 太宰治 「列車」
・・・そうして頂上の峠の海抜九百五十メートルまで、実に四百五十メートルの高さをわずかの時間の間に客車の腰掛に腰かけたままで上昇する。そうして普通の上空気温低下率から計算しても約摂氏五度ほどの気温降下を経験する。それで乗客の感覚の上では、恰度かなり・・・ 寺田寅彦 「浅間山麓より」
・・・途中から見ただけではあるし、別に大して面白い映画とも思われなかったが、その中の一場面としてこの映画の主役となる老若男女四人が彼等の共同の住家として鉄道客車の古物をどこかから買って来るという事件がある。そうして、若い娘と若い男二人がその奇抜な・・・ 寺田寅彦 「鴉と唱歌」
出典:青空文庫