・・・というものは、貴族的のもので到底一般社会の遊事にはならぬというのと、一は茶事などというものは、頗る変哲なもの、殊更に形式的なもので、要するに非常識的のものであるとなせる等である、固より茶の湯の真趣味を寸分だも知らざる社会の臆断である、そうか・・・ 伊藤左千夫 「茶の湯の手帳」
・・・嫁にいこうがどうしようが、民子は依然民子で、僕が民子を思う心に寸分の変りない様に民子にも決して変りない様に思われて、その観念は殆ど大石の上に坐して居る様で毛の先ほどの危惧心もない。それであるから民子は嫁に往ったと聞いても少しも驚かなかった。・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・僕の心の奥が絶えず語っていたところと寸分も違わない。 しかし、僕も男だ、体面上、一度約束したことを破る気はない。もう、人を頼まず、自分が自分でその場に全責任をしょうよりほかはない。 こうなると、自分に最も手近な家から探ぐって行かなけ・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・ 牴牾しいのはこっちだ、といったふうに寸分違わないように似せてゆく。それが遊戯になってしまった。しまいには彼が「松仙閣」といっているのに、勝子の方では知らずに「朝鮮閣」と言っている。信子がそれに気がついて笑い出した。笑われると勝子は冠を・・・ 梶井基次郎 「城のある町にて」
・・・唐は手に取って視ると、大きさから、重さから、骨質から、釉色の工合から、全くわが家のものと寸分違わなかった。そこで早速自分の所有のを出して見競べて視ると、兄弟かふたごか、いずれをいずれとも言いかねるほど同じものであった。自分のの蓋を丹泉の鼎に・・・ 幸田露伴 「骨董」
・・・福田蘭童、あの人、こんな手紙、女のひとへ幾枚も、幾枚も、書いたのだ。寸分ちがわぬ愛の手紙を。 五唱 嘘つきと言われるほどの律儀者 まちを歩けば、あれ嘘つきが来た。夕焼あかき雁の腹雲、両手、着物のやつくちに不精者らしく・・・ 太宰治 「二十世紀旗手」
・・・僕の芸術は、おもちゃの持つ美しさと寸分異るところがないということを。あの、でんでん太鼓の美しさと。ほととぎす、いまわのきわの一声は、「死ぬるとも、巧言令色であれ!」 このほか三通、気にかかっている書簡があるのだけれど、それらに就いて・・・ 太宰治 「もの思う葦」
・・・あらゆる直接経験から来る常識の幻影に惑わされずに純理の道筋を踏んだのは、数学という器械の御蔭であるとしても、全く抽象的な数学の枠に万象の実世界を寸分の隙間もなく切りはめた鮮やかな手際は物理学者としてその非凡なえらさによるものと考えなければな・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
・・・例えば悪趣味で人を呼ぶ都会の料理屋の造り庭の全く無意味なこけおどしの石燈籠などよりも、寸分無駄のない合理的な発電所や変圧所の方がどのくらい美しく気持がよいか比較にならないように思われるのである。 進むに従って両岸の景色が何となく荒涼に峻・・・ 寺田寅彦 「雨の上高地」
・・・単にフィルムの断片をはり合わせるだけで、一度現われたと寸分違わぬ光景を任意にいつでもカットバックしフラッシュバックすることもできる。東京の町とロンドンの町とを一瞬間に取り換えることもできる。また撮影速度の加減によって速いものをおそくも、おそ・・・ 寺田寅彦 「映画芸術」
出典:青空文庫