・・・ わたしはこの婆さんにいろいろの話を聞かせて貰いました。就中妙に気の毒だったのはいつも蜜柑を食っていなければ手紙一本書けぬと言う蜜柑中毒の客の話です。しかしこれはまたいつか報告する機会を待つことにしましょう。ただ半之丞の夢中になっていた・・・ 芥川竜之介 「温泉だより」
・・・「おれの国の人間は、みんな焼くよ。就中おれなんぞは、――」 そこへ婆さんが勝手から、あつらえ物の蒲焼を運んで来た。 その晩牧野は久しぶりに、妾宅へ泊って行く事になった。 雨は彼等が床へはいってから、霙の音に変り出した。お蓮は・・・ 芥川竜之介 「奇怪な再会」
・・・この三君は三君なりにいずれも性格を異にすれども、江戸っ児たる風采と江戸っ児たる気質とは略一途に出ずるものの如し。就中後天的にも江戸っ児の称を曠うせざるものを我久保田万太郎君と為す。少くとも「のて」の臭味を帯びず、「まち」の特色に富みたるもの・・・ 芥川竜之介 「久保田万太郎氏」
・・・けれども忽ち彼の顔に、――就中彼の薄い眉毛に旧友の一人を思い出した。「やあ、君か。そうそう、君は湖南の産だったっけね。」「うん、ここに開業している。」 譚永年は僕と同期に一高から東大の医科へはいった留学生中の才人だった。「き・・・ 芥川竜之介 「湖南の扇」
・・・保吉はそれにも苛立たしさを感じた。就中海軍の将校たちの大声に何か話しているのは肉体的に不快だった。彼は二本目の「朝日」に火をつけ、プラットフォオムの先へ歩いて行った。そこは線路の二三町先にあの踏切りの見える場所だった。踏切りの両側の人だかり・・・ 芥川竜之介 「寒さ」
・・・手箱ほど部の重った、表紙に彩色絵の草紙を巻いて――鼓の転がるように流れたのが、たちまち、紅の雫を挙げて、その並木の松の、就中、山より高い、二三尺水を出た幹を、ひらひらと昇って、声するばかり、水に咽んだ葉に隠れた。――瞬く間である。―― ・・・ 泉鏡花 「絵本の春」
・・・ 津々浦々到る処、同じ漁師の世渡りしながら、南は暖に、北は寒く、一条路にも蔭日向で、房州も西向の、館山北条とは事かわり、その裏側なる前原、鴨川、古川、白子、忽戸など、就中、船幽霊の千倉が沖、江見和田などの海岸は、風に向いたる白帆の外には・・・ 泉鏡花 「海異記」
・・・初手の烏もともに、就中、後なる三羽の烏は、足も地に着かざるまで跳梁す。彼等の踊狂う時、小児等は唄を留む。一同 魔が来た、でんでん。影がさいた、もんもん。(四五度口々に寂しく囃ほんとに来た。そりゃ来た。小児のうちに一人、誰・・・ 泉鏡花 「紅玉」
・・・ もとのように、就中遥に離れた汀について行く船は、二艘、前後に帆を掛けて辷ったが、その帆は、紫に見え、紅く見えて、そして浪路の襟に映り、肌を染めた。渡鳥がチチと囀った。「あれ、小松山の神さんが。」 や、や、いかに阿媽たち、――こ・・・ 泉鏡花 「小春の狐」
・・・ されば法官がその望で、就中希った判事に志を得て、新たに、はじめて、その方は……と神聖にして犯すべからざる天下控訴院の椅子にかかろうとする二三日。 足の運びにつれて目に映じて心に往来するものは、土橋でなく、流でなく、遠方の森でなく、・・・ 泉鏡花 「政談十二社」
出典:青空文庫