・・・目の前に聳えた松樹山の山腹にも、李家屯の我海軍砲は、幾たびか黄色い土煙を揚げた。その土煙の舞い上る合間に、薄紫の光が迸るのも、昼だけに、一層悲壮だった。しかし二千人の白襷隊は、こう云う砲撃の中に機を待ちながら、やはり平生の元気を失わなかった・・・ 芥川竜之介 「将軍」
・・・その上に白い炭焼の煙が低く山腹をはっていたのはさらに私をゆかしい思いにふけらせた。 石をはなれてふたたび山道にかかった時、私は「谷水のつきてこがるる紅葉かな」という蕪村の句を思い出した。 戦場が原 枯草の間を沼の・・・ 芥川竜之介 「日光小品」
・・・その白さがまた、凝脂のような柔らかみのある、滑な色の白さで、山腹のなだらかなくぼみでさえ、丁度雪にさす月の光のような、かすかに青い影を湛えているだけである。まして光をうけている部分は、融けるような鼈甲色の光沢を帯びて、どこの山脈にも見られな・・・ 芥川竜之介 「女体」
・・・しかし汽車が今将に隧道の口へさしかかろうとしている事は、暮色の中に枯草ばかり明い両側の山腹が、間近く窓側に迫って来たのでも、すぐに合点の行く事であった。にも関らずこの小娘は、わざわざしめてある窓の戸を下そうとする、――その理由が私には呑みこ・・・ 芥川竜之介 「蜜柑」
・・・ 見る間に、山腹の真黒な一叢の竹藪を潜って隠れた時、「やーい。」「おーい。」 ヒュウ、ヒュウと幽に聞こえた。なぜか、その笛に魅せられて、少年等が、別の世、別の都、別の町、あやしきかくれ里へ攫われて行きそうで、悪酒に酔ったよう・・・ 泉鏡花 「燈明之巻」
・・・ 溪の向こう側には杉林が山腹を蔽っている。私は太陽光線の偽瞞をいつもその杉林で感じた。昼間日が当っているときそれはただ雑然とした杉の秀の堆積としか見えなかった。それが夕方になり光が空からの反射光線に変わるとはっきりした遠近にわかれて来る・・・ 梶井基次郎 「冬の蠅」
・・・雑木と枯茅でおおわれた大きな山腹がその桑畑へ傾斜して来ていた。山裾に沿って細い路がついていた。その路はしばらくすると暗い杉林のなかへは入ってゆくのだったが、打ち展けた平地と大らかに明るい傾斜に沿っているあいだ、それはいかにも空想の豊かな路に・・・ 梶井基次郎 「闇の書」
一 くすれたような鉱山の長屋が、C川の両側に、細長く、幾すじも這っている。 製煉所の銅煙は、禿げ山の山腹の太短かい二本の煙突から低く街に這いおりて、靄のように長屋を襲った。いがらっぽいその煙にあうと、・・・ 黒島伝治 「土鼠と落盤」
・・・ そとは、いくらか明るくなっていて、まっ白な山腹が、すぐ眼のまえに現われた。谷間を覗いてみると、もやもや朝霧の底に一条の谷川が黒く流れているのも見えた。「おそろしく寒いね。」嘘である。そんなに寒いとは思わなかったのだが、「お酒、のみ・・・ 太宰治 「姥捨」
・・・の力で押されて山腹を下り、その余力のほんのわずかな剰余で冷却固結した岩塊を揉み砕き、つかみ潰して訳もなくこんなに積み上げたのである。 岩塊の頂上に紅白の布片で作った吹き流しが立っている。その下にどこかの天ぷら屋の宣伝札らしいものがある。・・・ 寺田寅彦 「浅間山麓より」
出典:青空文庫