・・・中へ身を浸して、ずっぷり頭まで水に隠したまま、三十分あまりもはいっている――それもこの頃の陽気ばかりだと、さほどこたえはしますまいが、寒中でもやはり湯巻き一つで、紛々と降りしきる霙の中を、まるで人面の獺のように、ざぶりと水へはいると云うじゃ・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・が、これを見ました老爺は、やがて総身に汗をかいて、荷を下した所へ来て見ますと、いつの間にか鯉鮒合せて二十尾もいた商売物がなくなっていたそうでございますから、『大方劫を経た獺にでも欺されたのであろう。』などと哂うものもございました。けれども中・・・ 芥川竜之介 「竜」
・・・――うぐい、鮠、鮴の類は格別、亭で名物にする一尺の岩魚は、娘だか、妻女だか、艶色に懸相して、獺が件の柳の根に、鰭ある錦木にするのだと風説した。いささか、あやかしがついていて、一層寂れた。鵜の啣えた鮎は、殺生ながら賞翫しても、獺の抱えた岩魚は・・・ 泉鏡花 「古狢」
・・・「人間が落ちたか、獺でも駈け廻るのかと思った、えらい音で驚いたよ。」 これは、その翌日の晩、おなじ旅店の、下座敷でのことであった。…… 境は奈良井宿に逗留した。ここに積もった雪が、朝から降り出したためではない。別にこのあたり・・・ 泉鏡花 「眉かくしの霊」
・・・ 獺橋の婆さんと土地で呼ぶ、――この婆さんが店を出すのでは……もう、十二時を過ぎたのである。 犬ほどの蜥蜴が、修羅を燃して、煙のように颯と襲った。「おどれめ。」 と呻くが疾いか、治兵衛坊主が、その外套の背後から、ナイフを鋭く・・・ 泉鏡花 「みさごの鮨」
・・・(急に恐入ったる体やあ、兄弟、浮かばずにまだ居たな。獺が銜えたか、鼬が噛ったか知らねえが、わんぐりと歯形が残って、蛆がついては堪らねえ。先刻も見ていりゃ、野良犬が嗅いで嗅放しで失せおった。犬も食わねえとはこの事だ。おのれ竜にもなる奴が、前世・・・ 泉鏡花 「山吹」
・・・寺の時雨かな西の京にばけもの栖て久しくあれ果たる家ありけり今は其さたなくて春雨や人住みて煙壁を洩る 狐狸にはあらで幾何か怪異の聯想を起すべき動物を詠みたるもの、獺の住む水も田に引く早苗かな獺を打し・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
・・・ この人は、どこか河獺に似ていました。赤ひげがぴんとはねて、歯はみんな銀の入歯でした。署長さんは立派な金モールのついた、長い赤いマントを着て、毎日ていねいに町をみまわりました。 驢馬が頭を下げてると荷物があんまり重過ぎないかと驢馬追・・・ 宮沢賢治 「毒もみのすきな署長さん」
出典:青空文庫