・・・殊に車が両国橋へさしかかった時、国技館の天に朧銀の縁をとった黒い雲が重なり合って、広い大川の水面に蜆蝶の翼のような帆影が群っているのを眺めると、新蔵はいよいよ自分とお敏との生死の分れ目が近づいたような、悲壮な感激に動かされて、思わず涙さえ浮・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・ それで沖を見渡しても、一つの帆影も、また一条の煙の跡も見ることがなかったのです。ただ波頭が白く見えるかと思うと消えたりして、渺茫とした海原を幾百万の白いうさぎの群れが駆けまわっているように思われました。 毎夜のように町では戸を閉め・・・ 小川未明 「黒い旗物語」
・・・、おなじ島の南にあたる尾野間という村の沖に、たくさんの帆をつけた船が、小舟を一隻引きながら、東さしてはしって行くのを、村の人たちが発見し、海岸へ集って罵りさわいだが、漸く沖合いのうすぐらくなるにつれ、帆影は闇の中へ消えた。そのあくる朝、尾野・・・ 太宰治 「地球図」
・・・近づくにつれて、晴川歴々たり漢陽の樹、芳草萋々たり鸚鵡の洲、対岸には黄鶴楼の聳えるあり、長江をへだてて晴川閣と何事か昔を語り合い、帆影点々といそがしげに江上を往来し、更にすすめば大別山の高峰眼下にあり、麓には水漫々の月湖ひろがり、更に北方に・・・ 太宰治 「竹青」
・・・平静な水のうえには、帆影が夢のように動いていた。モーターがひっきりなし明石の方へ漕いでいった。「あれが漁場漁場へ寄って、魚を集めて阪神へ送るのです」桂三郎はそんな話をした。 やがて女中が高盃に菓子を盛って運んできた。私たちは長閑な海・・・ 徳田秋声 「蒼白い月」
出典:青空文庫