・・・少なくとも、進んで新生活に参加する力なしとて、退いて旧生活を守ろうとする場合、新生活を否定しないものであるかぎり、そこに自己の心情の矛盾に対して、平らかなりえない心持ちの動くべきではないか」と片山氏はあるところで言っている。兄よ、前に述べた・・・ 有島武郎 「片信」
・・・大阪朝日の待遇には余り平らかでなかったが、東京の編輯局には毎日あるいは隔日に出掛けて、海外電報や戦地の通信を瞬時も早く読むのを楽みとしていた。「砲声聞ゆ」という電報が朝の新聞に見え、いよいよ海戦が初まったとか、あるいはこれから初まるとか・・・ 内田魯庵 「二葉亭余談」
・・・かれが沸騰せし心の海、今は春の霞める波平らかに貴嬢はただ愛らしき、あわれなる少女富子の姿となりてこれに映れるのみ。されどかれも年若き男なり、時にはわが語る言葉の端々に喚びさまされて旧歓の哀情に堪えやらず、貴嬢がこの姿をかき消すこともあれど、・・・ 国木田独歩 「おとずれ」
・・・大阪から例の瀬戸内通いの汽船に乗って春海波平らかな内海を航するのであるが、ほとんど一昔も前の事であるから、僕もその時の乗合の客がどんな人であったやら、船長がどんな男であったやら、茶菓を運ぶボーイの顔がどんなであったやら、そんなことは少しも憶・・・ 国木田独歩 「忘れえぬ人々」
・・・此の四山四河の中に手の広さ程の平らかなる処あり。爰に庵室を結んで天雨を脱れ、木の皮をはぎて四壁とし、自死の鹿の皮を衣とし、春は蕨を折りて身を養ひ、秋は果を拾ひて命を支へ候。」 今日交通の便開けた時代でも、身延山詣でした人はその途中の難と・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・二人が靴で踏み荒した雪の上へ新しい雪は地ならしをしたように平らかに降った。しかし、そこには、新しい趾跡は、殆んど印されなくなった。「これじゃ、シベリアの兎の種がつきるぞ。」 二人はそう云って笑った。 一日、一日、遠く丘を越え、谷・・・ 黒島伝治 「雪のシベリア」
・・・広い大きい道ではあるが、一つとして滑らかな平らかなところがない。これが雨が一日降ると、壁土のように柔らかくなって、靴どころか、長い脛もその半ばを没してしまうのだ。大石橋の戦争の前の晩、暗い闇の泥濘を三里もこねまわした。背の上から頭の髪までは・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・夫人の胸中も自ずから平らかなるを得たようである。 キャディが雲雀の巣を見付けた。草原の真唯中に、何一つ被蔽物もなく全く無限の大空に向って開放された巣の中には可愛い卵子が五つ、その卵形の大きい方の頂点を上向けて頭を並べている。その上端の方・・・ 寺田寅彦 「ゴルフ随行記」
・・・「ええ、平らです、けれどもここの平らかさはけわしさに対する平らさです。ほんとうの平らさではありません。」「そうです。それは私がけわしい山谷を渡ったから平らなのです。」「ごらんなさい、そのけわしい山谷にいまいちめんにマグノリアが咲・・・ 宮沢賢治 「マグノリアの木」
・・・それ故、歩くのが平らかに行かない。どうしても、きく、きく、と足が捩くれる。きくり、とする度に、ぴったりと形に適った鞣皮をぱんぱんにして、踝が突出る。けれども、その位の年頃の女の子はおかしいもので、きく、きく、しながらそのひとは一向かまわず、・・・ 宮本百合子 「思い出すかずかず」
出典:青空文庫