・・・時々蹄鉄を打ちかえれば、どんな山道でも平気ですよ。……」 するともう若い下役は馬の脚を二本ぶら下げたなり、すうっとまたどこかからはいって来た。ちょうどホテルの給仕などの長靴を持って来るのと同じことである。半三郎は逃げようとした。しかし両・・・ 芥川竜之介 「馬の脚」
・・・ それにもかかわらず父は存外平気だった。「そうか。それではもういいから行って食うといい。俺しもお前の年ごろの時分には、飯も何も忘れてからに夜ふかしをしたものだ。仕事をする以上はほかのことを忘れるくらいでなくてはおもしろくもないし、甘・・・ 有島武郎 「親子」
・・・とき勇気を有し、自己の生活を統一するに実業家のごとき熱心を有し、そうしてつねに科学者のごとき明敏なる判断と野蛮人のごとき卒直なる態度をもって、自己の心に起りくる時々刻々の変化を、飾らず偽らず、きわめて平気に正直に記載し報告するところの人でな・・・ 石川啄木 「弓町より」
・・・六畳に三畳、二階が六畳という浅間ですから、開放しで皆見えますが、近所が近所だから、そんな事は平気なものです。――色気も娑婆気も沢山な奴等が、たかが暑いくらいで、そんな状をするのではありません。実はまるで衣類がない。――これが寒中だと、とうの・・・ 泉鏡花 「木の子説法」
・・・余事はともかく、第一に君は二年も三年も妻子に離れておって平気なことである。そういえば君は、「何が平気なもんか、万里異境にある旅情のさびしさは君にはわからぬ」などいうだろうけれど、僕から見ればよくよくやむを得ぬという事情があるでもなく、二年も・・・ 伊藤左千夫 「去年」
・・・それにしても、思い出す度にぞッとするのは、敵の砲弾でもない、光弾の光でもない、速射砲の音でもない、実に、僕の隊附きの軍曹大石という人が、戦線の間を平気で往来した姿や。これが、今でも、幽霊の様に、また神さまの様に、僕の心に見えとるんや。」・・・ 岩野泡鳴 「戦話」
・・・という言葉は度々鴎外から聞いた。「那破烈翁は四時間しか寝なかったそうだが、四時間寝るのを豪がる事はないさ、」と平気な顔をして、明け方トロトロと眠ると直ぐ眼を覚まして、定刻に出勤して少しも寝不足な容子を見せなかったそうだ。 鴎外は・・・ 内田魯庵 「鴎外博士の追憶」
・・・ 聾になったように平気で、女はそれから一時間程の間、やはり二本の指を引金に掛けて引きながら射撃の稽古をした。一度打つたびに臭い煙が出て、胸が悪くなりそうなのを堪えて、そのくせそのを好きなででもあるように吸い込んだ。余り女が熱心なので、主・・・ 著:オイレンベルクヘルベルト 訳:森鴎外 「女の決闘」
・・・すると、老人は、案外平気な顔をしていいました。「昔は、『幸福の島』だったのだ。しかし、それがいま『禍の島』に変わってしまったのだ。それをだれが知っていよう。けっして、私の罪じゃない。」 けれど、みんなは老人のいうことを承知しませんで・・・ 小川未明 「明るき世界へ」
・・・肩と肩と擦れ寄りながら、自分の家の前まで来て内へ入ろうと思った途端、其処に誰も居ないものが、スーウと格子戸が開いた時は、彼も流石に慄然としたそうだが、幸に女房はそれを気が付かなかったらしいので、無理に平気を装って、内に入ってその晩は、事なく・・・ 小山内薫 「因果」
出典:青空文庫