・・・尊父はこの便りに接して、わが子の平静な心境を思いおのれのあくせくした心を恥じ、微笑んで送金をするのである。三郎の手紙は事実そのようにうまくいった。書生たちは、われもわれもと三郎に手紙の代筆、もしくは口述をたのんだのである。金が来ると書生たち・・・ 太宰治 「ロマネスク」
・・・善良なるその妻もまたあたかもこの世の中に何事も起こらなかったかのように平静な態度でこの不倫の夫を迎えたのであった。一方ではまた、突然の暴行の後に釈放された白い母鳥も、ほんのちょっとばかり取り乱した羽毛をくちばしでかいつくろって、心ばかりの身・・・ 寺田寅彦 「あひると猿」
・・・この無意識なそうして表面平静な挙動の奥にあばれている心のあらしを、隣室から響くピアノの単純なようで込み入った抑揚が細かに描いて行く。そうして食卓の上に刻まれた彼女自身の名前を見いだした最後の心機の転回に導かれるまでこのピアノ曲はあるいは強く・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・ そのうちにまたいつとなく三毛の生活は以前のように平静になったが、その時にはもう今までの子猫ではなくて立派に一人前の「母」になっていた。 いつも出入りする障子の穴が、彼女のためには日ごとに狭くなって行くのであった。出入りのたびごとに・・・ 寺田寅彦 「子猫」
・・・そしてそのような生活がいつまでも妨げられずに平静に続いて行って、その行末永い途上に美しい研究の花や実を齎す事を期望している。 四 切符の鋏穴 日比谷止まりの電車が帝劇の前で止まった。前の方の線路を見るとそこから日比・・・ 寺田寅彦 「雑記(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・例えばその人が従来続けて来た平静な生活から転じて、危険性を帯びたある工業に関係した当座に前述のような災難に会ったとしたらどうであろう。少なくも親戚の老人などの中にはこの災難と厄年の転業との間にある因果関係を思い浮べるものも少なくないだろう。・・・ 寺田寅彦 「厄年と etc.」
・・・しかし自分の弱さと戦う戦士としては決して弱くなかった。平静な水面のような外見の底に不断に起こっていた渦巻がいかに強烈なものであったかは今私の手もとにある各種の手記を見ればわかる。そういう意味で亮は生まれつき強い人々よりも幾倍も強い男であった・・・ 寺田寅彦 「亮の追憶」
・・・裾の方にある人家の群れも仄かに眺められた。平静な水のうえには、帆影が夢のように動いていた。モーターがひっきりなし明石の方へ漕いでいった。「あれが漁場漁場へ寄って、魚を集めて阪神へ送るのです」桂三郎はそんな話をした。 やがて女中が高盃・・・ 徳田秋声 「蒼白い月」
・・・要するにどの女でも若い盛りが過ぎて一度平静になった後に、もうほどなく老が襲って来そうだと思って、今のうちにもう一度若い感じを味ってみたいと企てる、ちょいとした浮気の発動が、この女の上にもめぐって来ているのだと認めたのである。あの手紙にはこの・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・病人が癒ってゆくための力づよい指導者であり、平静で明るい協力者であり、つまり病人の支えです。それだけの人間的な内容がいります。ですから、そういう職業の性質として、社会は、看護婦の経済的・精神的生活の安定のために、はからなければいけないと思い・・・ 宮本百合子 「生きるための協力者」
出典:青空文庫