・・・煩悶して、こんな手紙を書き掛けた女の心を、その文句が幽かに照し出しているのである。「先日おいでになった時、大層御尊信なすっておいでの様子で、お話になった、あのイエス・クリストのお名に掛けて、お願致します。どうぞ二度とお尋下さいますな。わ・・・ 著:オイレンベルクヘルベルト 訳:森鴎外 「女の決闘」
・・・溪川の香が近く、遠く幽かに耳について遠いところへ来てゐるという感じがせられた。 渋には、まだしも物売る店がある。郵便局がある。理髪店がある。其の他いろんな店がある。これに較べると上林は淋しい。宿屋が二三軒あるばかりである。山が裏手に・・・ 小川未明 「渋温泉の秋」
・・・はッ、これはしたり、何の事た、おれおれ、この俺が唸るのだ。微かな情ない声が出おるわい。そんなに痛いのかしら。痛いには違いあるまいが、頭がただもう茫と無感覚になっているから、それで分らぬのだろう。また横臥で夢になって了え。眠ること眠ること……・・・ 著:ガールシンフセヴォロド・ミハイロヴィチ 訳:二葉亭四迷 「四日間」
・・・悲鳴は最も微かなところからはじまる。だんだん強くするほど、だんだん強く鳴く。Crescendo のうまく出る――なんだか木管楽器のような気がする。 私のながらくの空想は、かくの如くにして消えてしまった。しかしこういうことにはきりがないと・・・ 梶井基次郎 「愛撫」
・・・この遠く幽かなる空色は夏のすでに近きを示すがごとく思われぬ。されど空気は重く湿り、茂り合う葉桜の陰を忍びにかよう風の音は秋に異ならず、木立ちの夕闇は頭うなだれて影のごとく歩む人の類を心まつさまなり。ああこのごろ、年若き男の嘆息つきてこの木立・・・ 国木田独歩 「おとずれ」
・・・ 高瀬は欄のところへ行って、川向うから伝わって来る幽かな鶏の声を聞いた。先生も一緒に立って眺めた。「高瀬さん、この家は見覚えがありましょう――」 先生にそう言われると、高瀬にも覚えがある。高瀬は一度小諸を通って先生の住居を訪ねた・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・ 池へ山水の落ちるのが幽かに聞える。小母さんはいつしか顔を出してすやすやと眠っている。大根を引くので疲れたのかもしれない。小母さんの静かな寝顔をじっと見ていると、自分もだんだんに瞼が重くなる。 千鳥の話は一と夜明ける。 自分・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・ 幽かに、表の街路のほうから、人のざわめきが聞えて来る。しばらくして、宿の廊下が、急にどたばた騒がしくなり、女中さんたちの囁き、低い笑声も聞える。私は、兄の叱咤の言よりも、そのほうに、そっと耳をすましていた。ふっと一言、聴取出来た。私は・・・ 太宰治 「一燈」
・・・私は左手の漂渺とした水霧の果てに、虫のように簇ってみえる微かな明りを指しながら言った。「ちがいますがな。大阪はもっともっと先に、微かに火のちらちらしている他ですがな」そう言って彼はまた右手の方を指しながら、「あれが和田岬です」「・・・ 徳田秋声 「蒼白い月」
・・・其の青い中にぽっちりと見えるカンテラの焔が微かに動き乍ら蚊帳を覗て居る。ともし灯を慕うて桐の葉にとまった轡虫が髭を動かしながらがじゃがじゃがと太十の心を乱した。太十は煙草を吸おうと思って蚊帳の中に起きた。蜀黍が少しがさがさと鳴るように聞えた・・・ 長塚節 「太十と其犬」
出典:青空文庫