ひろせいぜん【広瀬惟然】
[?〜1711]江戸前期の俳人。美濃の人。通称、源之丞。別号、素牛・鳥落人など。芭蕉の門人。師の没後、諸国を放浪。新奇軽妙な句風で口語調も試み、一茶らの先駆とされる。編著「藤の実」「二葉集」など。
ひろせきょくそう【広瀬旭荘】
[1807〜1863]江戸末期の儒学者・漢詩人。豊後 (ぶんご) の人。名は謙。淡窓の弟。兄を継いで咸宜園 (かんぎえん) を経営。著「梅墩 (ばいとん) 詩鈔」。
ひろせけんぞう【広瀬謙三】
[1895〜1970]新聞記者・野球人。愛知の生まれ。国民新聞、時事新報などの運動部記者として、多くのスポーツ記事を執筆。昭和11年(1936)日本職業野球連盟結成後初の公式記録員となり、記録・集計の基礎を築いた。
ひろせたけお【広瀬武夫】
[1868〜1904]軍人。海軍中佐。大分の生まれ。日露戦争中、旅順港閉鎖にあたり、自沈船の福井丸を指揮し、行方不明の杉野孫七兵曹長を退避の最後まで捜すうち、ボート上で被弾戦死。軍神とうたわれた。
ひろせたんそう【広瀬淡窓】
[1782〜1856]江戸後期の儒学者。豊後 (ぶんご) の人。名は建。字 (あざな) は子基。別号、青渓など。咸宜園 (かんぎえん) を開き、子弟を教育。大村益次郎・高野長英はその弟子。著「遠思楼詩鈔」「約言」など。
ひろせよしのり【広瀬叔功】
[1936〜 ]プロ野球選手・監督。広島の生まれ。昭和30年(1955)南海(福岡ソフトバンクの前身)に入団。外野手として活躍し、5年連続盗塁王を記録。引退後は同球団の監督を務めた。