・・・右の腕には針の跡は殆どなかったが、その代り、使いにくい左手を使わねばならない。新吉はふと不安になったが、針が折れれば折れた時のことだと、不器用な手つきで針の先を当てた。そして顔を真赤にして唇を尖らせながら、ぐっと押し込んでいると、何か悲しく・・・ 織田作之助 「郷愁」
・・・ この闇の風景は単純な力強い構成を持っている。左手には溪の向こうを夜空を劃って爬虫の背のような尾根が蜿蜒と匍っている。黒ぐろとした杉林がパノラマのように廻って私の行手を深い闇で包んでしまっている。その前景のなかへ、右手からも杉山が傾きか・・・ 梶井基次郎 「闇の絵巻」
・・・この鐘の最後の一打ちわずかに響きおわるころ夕煙巷をこめて東の林を離れし月影淡く小川の水に砕けそむれば近きわたりの騎馬隊の兵士が踵に届く長剣を左手にさげて早足に巷を上りゆく、続いて駄馬牽く馬子が鼻歌おもしろく、茶店の娘に声かけられても返事せぬ・・・ 国木田独歩 「わかれ」
・・・それを行くと、左手には、けわしい山があった。右には、雪の曠野が遥か遠くへ展開している。 山へ登ってみよう、とスメターニンが云いだした。山から見下せば地理がはっきり分るかもしれなかった。それには、しかし、中隊が麓へ到着するまでに登って、様・・・ 黒島伝治 「渦巻ける烏の群」
・・・頬かぶり、一ト筋の手拭は左の手首に縛しつけ、内懐にはお浪にかつてもらった木綿財布に、いろいろの交り銭の一円少し余を入れたのを確と納め、両の手は全空にしておいて、さて柴刈鎌の柄の小長い奴を右手に持ったり左手に持ったりしながら、だんだんと川上へ・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
右手に十勝岳が安すッぽいペンキ画の富士山のように、青空にクッキリ見えた。そこは高地だったので、反対の左手一帯はちょうど大きな風呂敷を皺にして広げたように、その起伏がズウと遠くまで見られた。その一つの皺の底を線が縫って、こっ・・・ 小林多喜二 「人を殺す犬」
・・・暗い竹藪のかげの細道について、左手に小高い石垣の下へ出ると、新しい二階建ての家のがっしりとした側面が私の目に映った。新しい壁も光って見えた。思わず私は太郎を顧みて、「太郎さん、お前の家かい。」「これが僕の家サ。」 やがて私はその・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・ 肉屋が右手でくびのところをだくようにしますと、犬は、言われたことがわかったように、肉屋の左手の甲をぺろぺろなめました。犬はそのまま夕方まで肉屋の店先で番をしました。あたりの犬たちが出て来て、店の中へもぐりこもうとでもしますと、やせ犬は・・・ 鈴木三重吉 「やどなし犬」
・・・土間へはいると、左手は馬小屋で、右手は居間と台所兼用の板敷の部屋で大きい炉なんかあって、まあ、圭吾の家もだいたいあれ式なのです。 嫁はまだ起きていて、炉傍で縫い物をしていました。「ほう、感心だのう。おれのうちの女房などは、晩げのめし・・・ 太宰治 「嘘」
・・・き退けて行くと、見る見る指頭につまんだ綿の棒の先から細い糸が発生し延びて行く、左の手を伸ばされるだけ伸ばしたところでその手をあげて今できあがっただけの糸を紡錘に通した竹管に巻き取る、そうしておいて再び左手を下げて糸を紡錘の針の先端にからませ・・・ 寺田寅彦 「糸車」
出典:青空文庫