・・・ 幕を引け! 幕を!」 声の主は将軍だった。将軍は太い軍刀のつかに、手袋の両手を重ねたまま、厳然と舞台を睨んで居た。 幕引きの少尉は命令通り、呆気にとられた役者たちの前へ、倉皇とさっきの幕を引いた。同時に蓆敷の看客も、かすかなどよめ・・・ 芥川竜之介 「将軍」
・・・ ――指を包め、袖を引け、お米坊。頸の白さ、肩のしなやかさ、余りその姿に似てならない。―― 今、目のあたり、坂を行く女は、あれは、二十ばかりにして、その夜、千羽ヶ淵で自殺してしまったのである。身を投げたのは潔い。 卑怯な、未練な・・・ 泉鏡花 「縷紅新草」
・・・平生ごく人のよい省作のことゆえ、兄夫婦もそれほどつらく当たるわけではないが、省作自ら気が引けて小さくなっている。のっそり坊も、もうのっそりしていられない。省作もようやく人生の苦労ということを知りそめた。 深田の方でも娘が意外の未練に引か・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・僕は勢いよく答えたが、実際、その時になっての用意があるわけでもないから、少し引け気味があったので、思わず知らず、「その時ア私がどうともして拵えますから、御安心なさい」と附け加えた。 僕はなるようになれという気であったのだ。 お袋は、・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・一本の指で引けと教えられたに、内々二本の指を掛けて、力一ぱいに引いて見た。その時耳ががんと云った。弾丸は三歩程前の地面に中って、弾かれて、今度は一つの窓に中った。窓ががらがらと鳴って壊れたが、その音は女の耳には聞えなかった。どこか屋根の上に・・・ 著:オイレンベルクヘルベルト 訳:森鴎外 「女の決闘」
・・・ こうなると、人間というものは妙に引け身になるもので、いつまでも一所にいると、何だか人に怪まれそうで気が尤める。で、私は見たくもない寺や社や、名ある建物などあちこち見て廻ったが、そのうちに足は疲れる。それに大阪鮨六片でやっと空腹を凌いで・・・ 小栗風葉 「世間師」
・・・が、それだけでは、新派めいて、気が引ける。ありていに言うと、ひとつにはおれの弥次馬根性がそうさせたのだ。施灸の巡業ときいて、「――面白い」 と思ったのだ。巡業そのものに、そして、そんなことを思いつくお前という人間に、興味を感じたのだ・・・ 織田作之助 「勧善懲悪」
・・・一の字を彫りつけられたのは、抗夫長屋ではやっていた、オイチョカブ賭博の、一、二、三、四、五、六、七、八、九のうち、この札を引けば負けと決っている一の意味らしかった。刺青をされて間もなく炭坑を逃げ出すと、故郷の京都へ舞い戻り、あちこち奉公した・・・ 織田作之助 「競馬」
・・・自分の例を引けば、「異性の内に自己を見出さんとする心」を書いたとき私はまだ童貞であった。性交を賛美しつつも、童貞であったのだ。 私はかようなことに好んでこだわるのではない。青春にとってこれは重要なことであって触れずにおれないのだ。誰しも・・・ 倉田百三 「学生と生活」
・・・彼は縫物屋が引けて帰ったお品に云いつけた。「きみも出すか、一束出したら五銭やるぞ。」 姉よりさきに帰っている妹にも云った。きみはまだ小さくて、一束もよく背負えなかったが、「一束に五銭呉れるん。そんなら出さあ。」 きみは、口を・・・ 黒島伝治 「窃む女」
出典:青空文庫