・・・ てなことで引退ろうじゃあないか。不思議で堪らないから聞くんだが、どうだねえ、出来たわけかね。」「何がさ。」「何がじゃあないよ、お前さん出来たのなら出来たで可いじゃあないか、いっておしまいよ。」「だって、出来たって分らないもの。・・・ 泉鏡花 「清心庵」
・・・ここは構わないで、湯にでも入ったら可かろうと、湯治の客には妙にそぐわない世辞を言うと、言に随いて、ではそうさして頂きます、後生ですわ、と膠もなく引退った。畳も急に暗くなって、客は胴震いをしたあとを呆気に取られた。 ……思えば、それも便宜・・・ 泉鏡花 「鷭狩」
・・・当時木村と花田は関根名人引退後の名人位獲得戦の首位と二位を占めていたから、この二人が坂田に負けると、名人位の鼎の軽重が問われる。それに東京棋師の面目も賭けられている、負けられぬ対局であったが、坂田にとっても十六年の沈黙の意味と「坂田将棋」の・・・ 織田作之助 「可能性の文学」
・・・純粋な感謝の念の籠ったおじぎを一つボクリとして引退ってしまった。主人はもっと早く引退ってもよかったと思っていたらしく、客もまたあるいはそうなのか、細君が去ってしまうとかえって二人は解放されたような様子になった。「君のところへ呼びに行きは・・・ 幸田露伴 「鵞鳥」
・・・女が鉄瓶を小さい方の五徳へ移せば男は酒を燗徳利に移す、女が鉄瓶の蓋を取る、ぐいと雲竜を沈ませる、危く鉄瓶の口へ顔を出した湯が跳り出しもし得ず引退んだり出たりしている間に鍋は火にかけられる。「下の抽斗に鰹節があるから。と女は云いながら・・・ 幸田露伴 「貧乏」
・・・と問うた。答えは簡単だった。「源氏」。それきりだった。また紹巴が「誰か参りて御閑居を御慰め申しまするぞ」と問うた。公の返事は実に好かった。「源氏」。 三度が三度同じ返答で、紹巴は「ウヘー」と引退った。なるほどこの公の歩くさきには旋風が立・・・ 幸田露伴 「魔法修行者」
出典:青空文庫