・・・「ええ、すぐに見えるそうです。」「じゃその方が見えてからにしましょう。――どうもはっきりしない天気ですな。」 谷村博士はこう云いながら、マロック革の巻煙草入れを出した。「当年は梅雨が長いようです。」「とかく雲行きが悪いん・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・「童貞聖麻利耶様、私が天にも地にも、杖柱と頼んで居りますのは、当年八歳の孫の茂作と、ここにつれて参りました姉のお栄ばかりでございます。お栄もまだ御覧の通り、婿をとるほどの年でもございません。もし唯今茂作の身に万一の事でもございましたら、・・・ 芥川竜之介 「黒衣聖母」
・・・妻ふさ子は、丁度四年以前に、私と結婚致しました。当年二十七歳になりますが、子供はまだ一人もございません。ここで私が特に閣下の御注意を促したいのは、妻にヒステリカルな素質があると云う事でございます。これは結婚前後が最も甚しく、一時は私とさえほ・・・ 芥川竜之介 「二つの手紙」
・・・「――某が屋敷に、当年はじめて、何とも知れぬくさびらが生えた――ひたもの取って捨つれども、夜の間には生え生え、幾たび取ってもまたもとのごとく生ゆる、かような不思議なことはござらぬ――」 鷺玄庵、シテの出る前に、この話の必要上・・・ 泉鏡花 「木の子説法」
・・・ 浜路一陣のこうふう送春を断す 名花空しく路傍の塵に委す 雲鬟影を吹いて緑地に粘す 血雨声無く紅巾に沁む 命薄く刀下の鬼となるを甘んずるも 情は深くして豈意中の人を忘れん 玉蕭幸ひに同名字あつて 当年未了の因を補ひ得たり 犬・・・ 内田魯庵 「八犬伝談余」
・・・ 先年侯井上が薨去した時、当年の弾劾者たる学堂法相の著書『経世偉勲』が再刊されたのは皮肉であった。『経世偉勲』の発行されたのはあたかも侯井上の欧化政策時代であって、その頃学堂はジスレリーに私淑しているという評判だった。が、政治家としての・・・ 内田魯庵 「四十年前」
・・・ いま、科学主義万能によって、いちじるしく、軟柔性を欠き、硬直したる社会運動に、また芸術運動に、直面して、真に思い出さるゝことは、二たび、当年のナロードの精神に帰れということではあるまいか。・・・ 小川未明 「純情主義を想う」
・・・その家にもう一人小隊長と呼ばれている家族がいる。当年七歳の少年である。小隊長というのは彼等三人の中隊長であった人の遺児であるからそう名づけたのであろう。父中隊長の戦死後その少年が天涯孤独になったのを三人が引き取って共同で育てているのだ。・・・ 織田作之助 「電報」
・・・が、あの高い煉瓦塀の中でのいっさいの自由を奪われたような苦役生活の八年間――どれほどの重い罪を犯したものか、自分なんかにはほとんど想像もつかないことではあるが、何しろ彼はまだ当年十九歳の、いわばまだ少年と言っていい年齢だったのだ。それがそれ・・・ 葛西善蔵 「死児を産む」
・・・というのは、その当年三十七歳の名誉職御自身の事である。 今だから、こんな話も公開できるのですが、当時はそれこそ極秘の事件で、この町でこの事件に就いて多少でも知っていたのは、ここの警察署長とそれから、この私と、もうそれくらいのものでし・・・ 太宰治 「嘘」
出典:青空文庫