徳富猪一郎君は肥後熊本の人なり。さきに政党の諸道に勃興するや、君、東都にありて、名士の間を往来す。一日余の廬を過ぎ、大いに時事を論じ、痛歎して去る。当時余ひそかに君の気象を喜ぶ。しかるにいまだその文筆あるを覚らざるなり。・・・ 田口卯吉 「将来の日本」
・・・ と叫んで、往来のひとたちを集めてしばってもらおうかとも思ったのですが、とにかく大谷さんは私どもとは知合いの間柄ですし、それもむごすぎるように思われ、今夜はどんな事があっても大谷さんを見失わないようにどこまでも後をつけて行き、その落ちつく先・・・ 太宰治 「ヴィヨンの妻」
・・・そしてコニャックを飲む。往来を眺める。格別物を考えはしない。 用事があってこの店へ来ることはない。金貸しには交際があるが、それはこの店を禁物にしていて近寄らない。さて文士連と何の触接点があるかと云うと、当時流行のある女優を、文士連も崇拝・・・ 著:ダビットヤーコプ・ユリウス 訳:森鴎外 「世界漫遊」
・・・全身には悪熱悪寒が絶えず往来する。頭脳が火のように熱して、顳がはげしい脈を打つ。なぜ、病院を出た? 軍医があとがたいせつだと言ってあれほど留めたのに、なぜ病院を出た? こう思ったが、渠はそれを悔いはしなかった。敵の捨てて遁げた汚い洋館の板敷・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・観察の鋭いそしていつも物の暗面を見たがる癖があるので、人からはむしろ憚かられていたためか、平生親しく往来する友も少なかった。そのひねくれたようなところが妙に自分と気が合ったのも不思議である。自分はどうかこうか世間並の坊ちゃんで成人し、黒田の・・・ 寺田寅彦 「イタリア人」
・・・その上防波堤へ上がって、砂ぶかい汽車や電車の軌道ぞいの往来へあがってみると、高台の方には、単調な松原のなかに、別荘や病院のあるのが目につくだけで、鉄拐ヶ峰や一の谷もつまらなかった。私は風光の生彩をおびた東海の浜を思いださずにはいられなかった・・・ 徳田秋声 「蒼白い月」
・・・ ――こんにゃはァ、こんにゃはァ、 ただこのふれごえ一つだけでも、往来の真ン中で、みんなが見ているところで、ふしをつけて平気で怒鳴れるようになるまでには、どんなに辛い思いをすることか。 私だってまだ少年だから恥ずかしい。はじめの・・・ 徳永直 「こんにゃく売り」
・・・此の bitume 色の茎の間を縫つて、黒ずんだ上に鈍い反射を見せてゐる水の面を、十羽ばかりの雁が緩やかに往来してゐる。中には停止して動かぬのもある。」 此の景は池之端七軒町から茅町に到るあたりの汀から池を見たものであろう。作者は此の景・・・ 永井荷風 「上野」
・・・そうして表の障子を外した閾を越えて往来まで一杯に成って居る。太十も其儘立って覗いて居た。斜に射すランプの光で唄って居る二女の顔が冴えて見える。一段畢ると家の内はがやがやと騒がしく成る。煙草の烟がランプをめぐって薄く拡がる。瞽女は危ふげな手の・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・余が桜の杖に頤を支えて真正面を見ていると、遥かに対岸の往来を這い廻る霧の影は次第に濃くなって五階立の町続きの下からぜんぜんこの揺曳くものの裏に薄れ去って来る。しまいには遠き未来の世を眼前に引き出したるように窈然たる空の中にとりとめのつかぬ鳶・・・ 夏目漱石 「カーライル博物館」
出典:青空文庫