・・・龍介は停車場の前まで戻ってきてみた。待合室はガランとしていてストーヴが燃えていた。その前に、印も何も分らない半纒を着て、ところどころ切れて脛の出ている股引をはいた、赤黒い顔の男が立っていた。汚れた手拭を首にかけていた。龍介は今度は道をかえて・・・ 小林多喜二 「雪の夜」
・・・停車場の待合室に傘を捨て、駅の案内所で、江の島へ行くには? と聞いたのであるが、聞いてしまってから、ああ、やっぱり、死ぬるところは江の島ときめていたのだな、と素直に首肯き、少し静かな心地になって、駅員の教えて呉れたとおりの汽車に乗った。・・・ 太宰治 「狂言の神」
・・・私は待合室のベンチに腰をおろして、にやりと笑う。それだから言わないこっちゃ無い。東京へ来ても、だめだと、あれほど忠告したじゃないか。娘も、親爺も、青年も、全く生気を失って、ぼんやりベンチに腰をおろして、鈍く開いた濁った眼で、一たいどこを見て・・・ 太宰治 「座興に非ず」
・・・水野さんとは、ことしの春、私が左の眼をわずらって、ちかくの眼医者へ通って、その病院の待合室で、知り合いになったのでございます。私は、ひとめで人を好きになってしまうたちの女でございます。やはり私と同じように左の眼に白い眼帯をかけ、不快げに眉を・・・ 太宰治 「燈籠」
・・・ 病院に着いて、あの人と一緒に待合室へはいってみたら、ここはまた世の中と、まるっきりちがった風景で、ずっとまえ築地の小劇場で見た「どん底」という芝居の舞台面を、ふいと思い出しました。外は深緑で、あんなに、まばゆいほど明るかったのに、ここ・・・ 太宰治 「皮膚と心」
・・・それから、私たちは浪岡の駅に着いて、まだ時間がかなりあったので、私たちは駅の待合室のベンチに腰かけてお弁当をひらきました。その時、あなたのお弁当のおかずは卵焼きと金平牛蒡で、私の持って来たお弁当のおかずは、筋子の粕漬と、玉葱の煮たのでした。・・・ 太宰治 「冬の花火」
一 一月中旬のある日の四時過ぎに新宿の某地下食堂待合室の大きな皮張りの長椅子の片すみに陥没して、あとから来るはずの友人を待ち合わせていると、つい頭の上近くの天井の一角からラジオ・アナウンサーの特有な癖のある雄弁が流れ出していた。・・・ 寺田寅彦 「相撲」
・・・ ある日偶然上野の精養軒の待合室で初めてJOAKの放送を聞いたが、その拡声器の発する音は実に恐るべき辟易すべきものであった。そのためになおさら自分のラジオに対する興味は減殺されたようであった。ところが、ある夏の日に友人と二人で郊外の某旗・・・ 寺田寅彦 「ラジオ雑感」
・・・ 自分は動いている生活の物音の中に、淋しい心持を漂わせるため、停車場の待合室に腰をかける機会の多い事を望んでいる。何のために茲に来るのかと駅夫に訊問された時の用意にと自分は見送りの入場券か品川行の切符を無益に買い込む事を辞さないのである・・・ 永井荷風 「銀座」
・・・ 彼は、待合室から、駅前の広場を眺めた。 陽光がやけに鋭く、砂利を焙った。その上を自動車や、電車や、人間などが、焙烙の上の黒豆のように、パチパチと転げ廻った。「堪らねえなあ」 彼は、窓から外を見続けていた。「キョロキョロ・・・ 葉山嘉樹 「乳色の靄」
出典:青空文庫