・・・』 若子さんが白い美しい手を、私の方へお伸しでしたから、私も其手につかまって、二人一緒に抱合う様にして、辛と放れないで待合室の傍まで行ったのでした。此処も一杯で、私達は迚も這入れそうもありませんでした。『若子さん、大層な人ですこと。・・・ 広津柳浪 「昇降場」
・・・停車場の前にはバナナだの苹果だの売る人がたくさんいた。待合室は大きくてたくさんの人が顔を洗ったり物を食べたりしている。待合室で白い服を着た車掌みたいな人が蕎麦も売っているのはおかしい。 *船はいま黒い煙を青森の方へ・・・ 宮沢賢治 「或る農学生の日誌」
・・・ 後から、駅の待合室へ行って見たが、そんな名物の売店なし。又電燈でぼんやり照らされている野天のプラットフォームへ出て、通りかかった国家保安部の制服をきた男に、 ――あなたそれどこでお買いになりました? 私売店をさがしてるんですが――・・・ 宮本百合子 「新しきシベリアを横切る」
・・・切符を買って、入るとそこが広間の待合室で、真中に緑色の縮緬紙の大きな蝶結びをつけた埃っぽい棕梠の鉢植が一つ飾ってあって、壁に沿って椅子が並べてある。 どんなすいた晩でも、そこでは七八人の楽師が待っている人のために音楽を奏していた。或る晩・・・ 宮本百合子 「映画」
・・・ 分りにくい建物の細い横のようなところから廊下をとおって、先ず公衆待合室というところへ行きました。外見は立派な役所に似ず薄暗いきたないところに床几が並んでいます。そこにもう二十人近い男女のひとが来ていましたが、初めてこういうところへ来て・・・ 宮本百合子 「共産党公判を傍聴して」
・・・私は次の日出かけることになっていてステーションまで皆を送りに行ったら、丁度前の日保釈で出たばかりの小林多喜二が、インバネスも着ず大島絣の着物の肩をピンと張って、やっぱり見送りに来ていた。待合室の床の上にカタカタと高く下駄の音をたてて歩きなが・・・ 宮本百合子 「窪川稲子のこと」
・・・一同待合室で待たせられる。そこでは煙草を呑むことが禁じてある。折々眼鏡を掛けた老人の押丁が出て名を呼ぶ。とうとうツァウォツキイの番になって、ツァウォツキイが役人の前に出た。 役人は罫を引いた大きい紙を前に拡げて、その欄の中になんだか書き・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「破落戸の昇天」
・・・口不精な役人が二等の待合室に連れて行ってくれた。高い硝子戸の前まで連れて来て置いて役人は行ってしまった。フィンクは肘で扉を押し開けて閾の上に立って待合室の中を見た。明るい所から暗い所に這入ったので、目の慣れるまではなんにも見えなかった。次第・・・ 著:リルケライネル・マリア 訳:森鴎外 「白」
五、六年前のことと記憶する。ある夜自分は木下杢太郎と、東京停車場のそのころ開かれてまだ間のない待合室で、深い腰掛けに身を埋めて永い間論じ合った。何を論じたかは忘れたが、熱心に論じ合った。二人の意見がなかなか近寄って来なかった。そこを出・・・ 和辻哲郎 「享楽人」
・・・私は仕方なく三等待合室へはいって行った。見ると質朴な田舎者らしい老人夫婦や乳飲み児をかかえた母親や四つぐらいの女の子などが、しょんぼり並んで腰を掛けている。朝からそのままの姿でじっとしていたのではないかと思わせるくらい静かに。その眼には確か・・・ 和辻哲郎 「停車場で感じたこと」
出典:青空文庫