・・・八つ手、檜葉、樫、午下りの日光と微風に輝き揺れて居る一隅の垣根ごしに、鶯の声がした。飼われて居る鶯らしい。三月の初め、私が徹夜した黎明であった。重く寒い暗藍色の東空に、低く紅の横雲の現れたのが、下枝だけ影絵のように細かく黒くちらつかせる檜葉・・・ 宮本百合子 「木蔭の椽」
・・・ 彼女等は、思いのままに延びた美くしい四肢の所有者であり、朗らかな六月の微風に麗わしい髪を吹きなびかせながら哄笑する心の所有者でございます。 広大な地と、高燥な軽い空気は、自ずと住む人間の心を快活に致します。のみならず、婦人に向って・・・ 宮本百合子 「C先生への手紙」
・・・ 息もつまりそうにうっそうと茂ったエルムの梢を、そよりとも動かす微風もなくて、静かに横わった湖水から、彼岸の山にかけて、むっとした息のような霞が掛って居る。何時とはなく肌がしめるような部屋で机に倚りながら、東京ももうさぞ暑い事だろうなと・・・ 宮本百合子 「樹蔭雑記」
・・・ましてや、微風のような異性の間の情味や生活の歓喜の一つの要素としての感覚・官能の解放は圧殺されていた。きょう私たちは人民が人民の主人となった解放のすがすがしさに、思わず邪魔な着物はぬぎすてて、風よふけ日よおどれと、裸身を衆目にさらしているの・・・ 宮本百合子 「商売は道によってかしこし」
・・・実践倫理という時間があって、その時間には、大学部の生徒は皆一同講堂にあつまって、成瀬校長の講義をきき、それを片はじから筆記するのであったが、講堂にみちる絶え間ない微風のような字をかく音を超えて、熱気をふくんだ校長の声は盛んに、自由とか天才と・・・ 宮本百合子 「青春」
・・・が心に微風が吹く――あとから、あとから微風が吹いて通る――。〔一九二〇年二月〕 宮本百合子 「追慕」
・・・ 細かに細かに千絶れた雲の一つ一つが夕映の光を真面に浴びて、紅に紫に青に輝き、その中に、黄金、白銀の糸をさえまじえて、思いもかけぬ、尊い、綾が織りなされるのである。 微風は、尊い色に輝く雲の片を運び始める。 紅と、紫はスラスラと・・・ 宮本百合子 「農村」
・・・またあの柔かな雛罌粟が壺にささって微風に赤々と揺らめくと、妻はかすかな歎声を洩して眺めていた。この四角な部屋に並べられた壺や寝台や壁や横顔や花々の静まった静物の線の中から、かすかな一条の歎声が洩れるとは。彼は彼女のその歎声の秘められたような・・・ 横光利一 「花園の思想」
・・・水を打たれた青菜の列が畑のように連なって、青い微風の源のように絶えずそよそよと冷たい匂いを群集の中へ流し込んだ。 彼は漸く浮き上った心を静に愛しながら、筵の上に積っている銅貨の山を親しげに覗くのだ。そのべたべたと押し重なった鈍重な銅色の・・・ 横光利一 「街の底」
・・・桂の愛らしい緑や微風にそよぐプラタアネの若葉に取り巻かれた肌の美しい女神の像も彼には敵意のほかの何の情緒をも起こさせなかった。台石の回りに咲き乱れている菫や薔薇、その上にキラキラと飛び回っている蜜蜂、――これらの小さい自然の内にも、人間の手・・・ 和辻哲郎 「『偶像再興』序言」
出典:青空文庫