・・・ さてお話し致しますのは、自分が魚釣を楽んでおりました頃、或先輩から承りました御話です。徳川期もまだひどく末にならない時分の事でございます。江戸は本所の方に住んでおられました人で――本所という処は余り位置の高くない武士どもが多くいた・・・ 幸田露伴 「幻談」
・・・旧い都が倒れかかって、未だそこここに徳川時代からの遺物も散在しているところは――丁度、熾んに燃えている火と、煙と、人とに満された火事場の雑踏を思い起させる。新東京――これから建設されようとする大都会――それはおのずからこの打破と、崩壊と、驚・・・ 島崎藤村 「並木」
・・・「じゃ、徳川十代将軍は、誰だか知ってるかい?」「知らん!」ほんとうに知らないのである。「なんにも知らないんだなあ。君は、学校の先生じゃないのかい?」「そんなもんじゃない。僕は、」と言いかけて、少し躊躇したが、ええ、悪びれず言・・・ 太宰治 「乞食学生」
・・・こんど徳川家康と一つ取っ組んでみようと思う、なんて大それた事を言っていた大衆作家もあったようだが、何を言っているのだ、どだい取組みにも何もなりやしない、身のほどを知れ、身のほどを、死ぬまで駄目さ、きまっているんだ、よく覚えて置け、と兄の口真・・・ 太宰治 「鉄面皮」
・・・こういう芸術を徳川時代の民間の卑賤な芸人どもはちゃんと心得ていたわけである。 生まれてはじめて見た人形芝居一夕のアドヴェンチュアのあとでのこれらの感想のくどくどしい言葉は、結局十歳の亀さんや、試写会における児童の端的で明晰なリマークに及・・・ 寺田寅彦 「生ける人形」
・・・それからまた県土木技師の設計監督によるモダーン県道を徳川時代の人々が闊歩したり、ナマコ板を張った塀の前で真剣試合が行なわれたりするのも考えものであるが、これはやむを得ないことかもしれない。 これに比べて現代を取り扱った邦画はいくらか有利・・・ 寺田寅彦 「映画時代」
・・・五十歳前、徳川三百年の封建社会をただ一簸りに推流して日本を打って一丸とした世界の大潮流は、倦まず息まず澎湃として流れている。それは人類が一にならんとする傾向である。四海同胞の理想を実現せんとする人類の心である。今日の世界はある意味において五・・・ 徳冨蘆花 「謀叛論(草稿)」
・・・ こういう点から見て、自分は維新前後における西洋文明の輸入には、甚だ敬服すべきものが多いように思っている。徳川幕府が仏蘭西の士官を招聘して練習させた歩兵の服装――陣笠に筒袖の打割羽織、それに昔のままの大小をさした服装は、純粋の洋服となっ・・・ 永井荷風 「銀座」
・・・それは明治七年其角堂永機の寄附と明治十三年水戸徳川家の増植とを俟って始て果されたのである。以後向島居住の有志者は常に桜樹の培養を怠らず、時々これが補植をなし、永くこの堤上を以て都人観花の勝地たらしむべく、明治二十年に植桜之碑を建てて紀念とな・・・ 永井荷風 「向嶋」
・・・こんな例ばかり見れば既成の型でどこまでも押して行けるという結論にもなりましょうが、それならなぜ徳川氏が亡びて、維新の革命がどうして起ったか。つまり一つの型を永久に持続する事を中味の方で拒むからなんでしょう。なるほど一時は在来の型で抑えられる・・・ 夏目漱石 「中味と形式」
出典:青空文庫