・・・すぐに取って返せば、忘れ物でもしたように思うであろう。……先祖代々の墓詣は昨日済ますし、久しぶりで見たかった公園もその帰りに廻る。約束の会は明日だし、好なものは晩に食べさせる、と従姉が言った。差当り何の用もない。何年にも幾日にも、こんな暢気・・・ 泉鏡花 「国貞えがく」
・・・「お忘れ物ですか。そんなものはありませんでしたよ」言いながら小僧は他所のをやっつけに行こう行こうとしてうわの空になっている。しかしそれはどうしても見つからなかった。さすがの自分も参っていた。足袋を一足買ってお茶の水へ急いだ。もう夜になっ・・・ 梶井基次郎 「泥濘」
・・・おいてくれい。あとで一しょに勘定して貰うから。」 襟は丁寧に包んで、紐でしっかり縛ってある。おれはそれを提げて、来合せた電車に乗って、二分間ほどすると下りた。「旦那。お忘れ物が。」車掌があとからこう云った。 おれは聞えない振りを・・・ 著:ディモフオシップ 訳:森鴎外 「襟」
・・・早く行て船室へ場を取りませねばと立上がれば婢僕親戚上り框に集いて荷物を車夫に渡す。忘れ物はないか。御座りませぬ。そんなら皆さん御機嫌よくも云った積りなれどやゝ夢心地なればたしかならず。玄関を出れば人々も砂利を鳴らしてついて来る。用意の車五輌・・・ 寺田寅彦 「東上記」
・・・何かお忘れ物はございませんか。お紙入れは」 善吉は返事もしない。お熊が枕もとを片づけるうちに、早や廊下を急ぐその足音が聞えた。「まるで夢中だよ。私の言うことなんざ耳に入らないんだよ。何にも忘れなすッた物はないかしら。そら忘れて行ッた・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・ 食堂に来て見ると母は珍らしくテーブルの傍に腰かけて忘れ物を仕た様な顔で頬杖を突いて居ました。「英男さんが好いんですってねえ、 何てよかったのでしょう。「ほんとにねえ、 今日はまあ六度六分になったのだよ。 昨日一・・・ 宮本百合子 「二月七日」
出典:青空文庫