・・・ 医者が雨の中を帰った後、慎太郎は父を店に残して、急ぎ足に茶の間へ引き返した。茶の間には今度は叔母の側に、洋一が巻煙草を啣えていた。「眠いだろう?」 慎太郎はしゃがむように、長火鉢の縁へ膝を当てた。「姉さんはもう寝ているぜ。・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・と答えると、泰さんは急ぎ足に追いついて、「君は今、車へ乗って通った人の顔を見たかい。」と、妙な事を尋ねるのです。「見たよ。痩せた、黒い色眼鏡をかけている男だろう。」――新蔵はいぶかしそうにこう云いながら、またさっさと歩き出しましたが、泰さん・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・一同は言葉少なになって急ぎ足に歩いた。基線道路と名づけられた場内の公道だったけれども畦道をやや広くしたくらいのもので、畑から抛り出された石ころの間なぞに、酸漿の実が赤くなってぶら下がったり、轍にかけられた蕗の葉がどす黒く破れて泥にまみれたり・・・ 有島武郎 「親子」
・・・南海通にもあくどいペンキ塗りのバラックの飲食店や闇商人の軒店や街頭賭博屋の屋台が並んでいて、これが南海通かと思うと情けなく急ぎ足に千日前へ抜けようとすると、続けざまに二度名前を呼ばれた。声のする方をひょいと見ると、元「波屋」があった所のバラ・・・ 織田作之助 「神経」
・・・ しかし、三日経ってまた赤玉へ行くと、瞳は居らず、訊けば、今日松竹座アへ行くいうたはりましたと、みなまできかず、道頓堀を急ぎ足に抜けて、松竹座へはいり、探した。二階にいた。松本と並んで坐っていた。松本の顔はしばしば赤玉に現われていたから・・・ 織田作之助 「雪の夜」
・・・ 買物があるという姑を八百屋の店に残して、彼は暗い星の冴えた小路へ急ぎ足で入った。 梶井基次郎 「雪後」
・・・大塚さんはハッと思って、見たような見ないような振をしながら、そのまま急ぎ足に通り過ぎたが、総身電気にでも打たれたように感じた。「おせんさん――」 と彼女の名を口中で呼んで見て、半町ほども行ってから、振返って見た。明るい黄緑の花を垂れ・・・ 島崎藤村 「刺繍」
・・・人々はあいかわらず急ぎ足で仕事に出ていきます。肉屋は、きょうは極上等の肉をどっさりつるして、お客をまっていました。すると、そこへ、きのうの犬がまたのこりと出て来て、同じように、たたきの上にすわったまま、じろじろと肉のきれを見上げています。・・・ 鈴木三重吉 「やどなし犬」
・・・と、西宮がお梅に問ねた時、廊下を急ぎ足に――吉里の室の前はわけて走るようにして通ッた男がある。 お梅はちょいと西宮の袖を引き、「善さんでしたよ」と、かの男を見送りながら細語いた。「え、善さん」と、西宮も見送りながら、「ふうむ」 ・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・軽い朝日を受けてこっち、ハルトゥリナ通りの方から一人、黒い書類入鞄を下げた女が急ぎ足で旧参謀本部、今のレーニングラード・ソヴェト行政部わきのアーチへ向って歩いて行く。そっち、十月二十五日通りから入って来て、斜に広場をネ河の岸へ横切って行く者・・・ 宮本百合子 「スモーリヌイに翻る赤旗」
出典:青空文庫