・・・ ――松村さん、木戸まで急用―― いけ年を仕った、学芸記者が馴れない軽口の逃口上で、帽子を引浚うと、すっとは出られぬ、ぎっしり詰合って飲んでいる、めいめいが席を開き、座を立って退口を譲って通した。――「さ、出よう、遅い遅い。」悪くす・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
・・・明日帰る時の用意に発車時間を見て置くのと、直江津なる友人へ急用の端書を出すためである。 キロキロと笛が鳴る。ピューと汽笛が応じて、車は闇中に動き出した。音ばかり長い響きを曳いて、汽車は長岡方面へ夜のそくえに馳せ走った。 予は此の停車・・・ 伊藤左千夫 「浜菊」
・・・実は今放送しておられる杉山節子さんに急用なんですが、電話口へ呼んで下さいませんか」「うふふ……」 交換手は笑って、「放送中の人を、電話口に呼べませんよ」「あッ、なるほど、こりゃうっかりしてました。もしもし、じゃ、杉山さんにお・・・ 織田作之助 「昨日・今日・明日」
・・・「家兄さん、小田原の姉様が参りました。」と淑かに通ずる。これを聞いて若主人は顔を上げて、やや不安の色で。「よろしい、今ゆく。」「急用なら中止しましょう」と紳士は一寸手を休める。「何に関いません、急用という程の事じゃアないんで・・・ 国木田独歩 「恋を恋する人」
・・・「うん、何でも急用らしい。すぐ行って来たほうがいい。」「行って来る。」 何が何だか、鶴にはわけがわからなくなって来た。自分の身の上が、まだ、世間とつながる事が出来るのか。一瞬、夢見るような気持になったが、あわててそれを否定した。・・・ 太宰治 「犯人」
・・・お宅から急用のお手紙が参りました」「お前は誰だい」「お表の小使でございます」 三右衛門は内から障子をあけた。手紙を持って来たのは、名は知らぬが、見識った顔の小使で、二十になるかならぬの若者である。 受け取った封書を持って、行・・・ 森鴎外 「護持院原の敵討」
・・・ 昨夜私は急用のために茂った松林の間の小径を半ば馳けながら通った。冷たい夜気が烈しく咽を刺激する。一つの坂をおりきった所で、私は息を切らして歩度を緩めた。前にはまたのぼるべきだらだら坂がある。――この時、突然私を捕えて私の心を急用から引・・・ 和辻哲郎 「創作の心理について」
出典:青空文庫