・・・ 数年前まで、自分が日本を去るまで、水の深川は久しい間、あらゆる自分の趣味、恍惚、悲しみ、悦びの感激を満足させてくれた処であった。電車はまだ布設されていなかったが既にその頃から、東京市街の美観は散々に破壊されていた中で、河を越した彼の場・・・ 永井荷風 「深川の唄」
・・・われらをして、まずこの神聖なる過去の霊場より、不体裁なる種々の記念碑、醜悪なる銅像等凡て新しき時代が建設したる劣等にして不真面目なる美術を駆逐し、そしてわれらをして永久に祖先の残した偉大なる芸術にのみ恍惚たらしめよ。自分は断言する。われらの・・・ 永井荷風 「霊廟」
・・・人によると、生涯に一度も無我の境界に点頭し、恍惚の域に逍遥する事のないものがあります。俗にこれを物に役せられる男と云います。かような男が、何かの因縁で、急にこの還元的一致を得ると、非常な醜男子が絶世の美人に惚れられたように喜びます。「意・・・ 夏目漱石 「文芸の哲学的基礎」
・・・あまりの絶景に恍惚として立ちも得さらず木のくいぜに坐してつくづくと見れば山更にしんしんとして風吹かねども冷気冬の如く足もとよりのぼりて脳巓にしみ渡るここちなり。波の上に飛びかう鶺鴒は忽ち来り忽ち去る。秋風に吹きなやまされて力なく水にすれつあ・・・ 正岡子規 「旅の旅の旅」
・・・無精で呑気で仇気ない愛嬌があって、嫋やかな背中つきで、恋心に恍惚しながら、クリストフと自分との部屋の境の扉を一旦締めたらもう再び開ける勇気のなかったザビーネ。白く美しい強壮な獣のようなアダ。フランスの堅気な旧教的な美を代表するアントワネット・・・ 宮本百合子 「アンネット」
・・・一太は、立派な大人の男みたいな洋犬を綺麗だと思い、こわいと思い、恍惚した。「おっかちゃん、あんな犬玉子食うかい?」 母は、横眼で門の中を見たぎり、「さあどうだか」と考え考えいった。一太は素足だから、べたべた草履が踵を打つ音を・・・ 宮本百合子 「一太と母」
・・・ 彼は暫く、その眼前に姿を現わした死の美しさに、見とれながら、恍惚として突き立っていた。と、やがて彼は一枚の紙のようにふらふらしながら、花園の中へ降りていった。 横光利一 「花園の思想」
・・・ しかし奥様がどことなく萎れていらしって恍惚なすった御様子は、トント嬉かった昔を忍ぶとでもいいそうで、折ふしお膝の上へ乗せてお連になる若殿さま、これがまた見事に可愛い坊様なのを、ろくろくお愛しもなさらない塩梅、なぜだろうと子供心にも思いまし・・・ 若松賤子 「忘れ形見」
・・・ 私はそこに現われた集中と純一と全存在的な活動とのゆえにしばし恍惚とした。 この気持ちのよさは我々がすべての活動に追い求めている所の一種の法悦であった。我々の内にもまた、生の焔はかく燃え上がらなくてはいけない。まことにそれは生本来の・・・ 和辻哲郎 「生きること作ること」
・・・要するに吾人は肉体を超越して宇宙の悲哀に恍惚たる心霊が雄壮に触れ真を憧憬し義に熱し愛に酔いて無我の境に入る時高潮に達する。Im Schnen, Im Guten, Im Ganzen resolbt zu leben の境地、神にあくがれて・・・ 和辻哲郎 「霊的本能主義」
出典:青空文庫