・・・今度はそう云う御言葉を、御恨みに思った涙なのです。「わたしは都にいた時の通り、御側勤めをするつもりです。年とった一人の母さえ捨て、兄弟にも仔細は話さずに、はるばるこの島へ渡って来たのは、そのためばかりではありませんか? わたしはそうおっ・・・ 芥川竜之介 「俊寛」
・・・今まで誰れの前にも弱味を見せなかったらしいその顔が、恨みを含んでじっとクララを見入っていた。クララは許婚の仲であるくせに、そしてこの青年の男らしい強さを尊敬しているくせに、その愛をおとなしく受けようとはしなかったのだ。クララは夢の中にありな・・・ 有島武郎 「クララの出家」
・・・平生の人間に対する憤りと恨みとが、消えたために、自ら危んだのだ。どの子もどの子も手を出して摩るのだ。摩られる度に、犬はびくびくした。この犬のためにはまだ摩られるのが、打たれるように苦痛なのであった。 次第にクサカの心持が優しくなった。「・・・ 著:アンドレーエフレオニード・ニコラーエヴィチ 訳:森鴎外 「犬」
・・・敗れて地に塗れた者は、尽きざる恨みを残して、長しなえに有情の人を泣かしめる。勝つ者はすくなく、敗るる者は多い。 ここにおいて、精神界と物質界とを問わず、若き生命の活火を胸に燃した無数の風雲児は、相率いて無人の境に入り、我みずからの新らし・・・ 石川啄木 「初めて見たる小樽」
・・・「私に、何のお怨みで?……」 と息せくと、眇の、ふやけた目珠ぐるみ、片頬を掌でさし蔽うて、「いや、辺境のものは気が狭い。貴方が余り目覚しい人気ゆえに、恥入るか、もの嫉みをして、前芸をちょっと遣った。……さて時に承わるが太夫、貴女・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
・・・お母さんはただただ御自分の悪い様にばかりとっているけれど、お母さんとて精神はただ民子のため政夫のためと一筋に思ってくれた事ですから、よしそれが思う様にならなかったとて、民子や私等が何とてお母さんを恨みましょう。お母さんの精神はどこまでも情心・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・ 僕は、女優問題さえ忘れれば、恨みもつらみもなかったのだから、こうやって飲んでいるのは悪くもなかった。 吉弥はまた早くこの厭な井筒屋を抜けて、自由の身になりたいのであった。何んでも早く青木から身受けの金を出させようと運動しているらし・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・『八犬伝』もまた末尾に近づくにしたがって強弩の末魯縞を穿つあたわざる憾みが些かないではないが、二十八年間の長きにわたって喜寿に近づき、殊に最後の数年間は眼疾を憂い、終に全く失明して口授代筆せしめて完了した苦辛惨憺を思えば構想文字に多少の倦怠・・・ 内田魯庵 「八犬伝談余」
・・・ 互に、罪もなく、怨みもなく、しかも殺し合って死なゝければならぬ子供等自身の立場に立ちて、人生問題として考えるばかりにとゞまらない。また、これを階級問題に移して、最も悲惨な犠牲者として、考えるばかりにとゞまらない。こうした悲情な物理力に対し・・・ 小川未明 「男の子を見るたびに「戦争」について考えます」
・・・「せめて何か、口約束でもした中と言うならだが、元々そんなことのあったわけじゃなし、それにお前の話を聞いて見りゃ一々もっともで、どうもこれ、怨みたくも怨みようがねえ……けれど、俺は理屈はなしに怨めしいんで……」「…………」「何もお・・・ 小栗風葉 「深川女房」
出典:青空文庫