・・・「ねえ、よい悪事って言葉、ないかしら。」「よい悪事。」私も、うっとり呟いてみる。「雨?」Kは、ふと、きき耳を立てる。「谷川だ。すぐ、この下を流れている。朝になってみると、この浴場の窓いっぱい紅葉だ。すぐ鼻のさきに、おや、と思・・・ 太宰治 「秋風記」
・・・私は、業が深くて、おそらくは君の五十倍、百倍の悪事を為した。現に、いまも、私は悪事を為している。どんなに気をつけていても、駄目なのだ。一日として悪事を為さぬ日は、無い。神に祷り、自分の両手を縄で縛って、地にひれ伏していながらも、ふっと気がつ・・・ 太宰治 「善蔵を思う」
・・・考えてみると、私の悪事は、たいてい片っ端から皆に見破られ、呆れられ笑われて来たようである。どうしても完璧の瞞着が出来なかった。しっぽが出ていた。「僕はね、或る学生からサタンと言われたんです。」私は少しくつろいで事情を打ち明けた。「いまい・・・ 太宰治 「誰」
・・・文化に就いての意見を述べよとおっしゃるのを、承っているうちに、私の老いの五体はわなわなと震え、いや、本当の事でございます、やがて恋を打ち明けられたる処女の如く顔が真赤に燃えるのを覚えまして、何か非常な悪事の相談でもしているような気がしてまい・・・ 太宰治 「男女同権」
・・・でも、過去のあたしの悪事は、あの青い水と一緒にみんな流れ出てしまったのですから、あなたも昔の事は忘れて、あたしをゆるして、あなたのお傍に一生置いて下さいな。」 一年後に、玉のような美しい男子が生れた。魚容はその子に「漢産」という名をつけ・・・ 太宰治 「竹青」
・・・小説というものは、どうしてこんなに、人の秘密の悪事ばかりを書いているのでしょう。私は、みだらな空想をする、不潔な女になりました。いまこそ私は、いつか叔父さんに教えられたように、私の見た事、感じた事をありのままに書いて神様にお詫びしたいとも思・・・ 太宰治 「千代女」
・・・がりがり後頭部を掻きながら、なんたることだ、日頃の重苦しさを、一挙に雲散霧消させたくて、何か悪事を、死ぬほど強烈なロマンチシズムを、と喘えぎつつ、あこがれ求めて旅に出た。山を見に来たのでは、あるまい。ばかばかしい。とんだロマンスだ。 が・・・ 太宰治 「八十八夜」
・・・それから、後日、このどろぼうが再び悪事を試み、そのとき捕えられて、牢へいれられても、私をうらむことはないであろう。私は、このどろぼうの風采に就いては、なんにも知らないということになっているのであるから、まさか、私がかれの訴人の一人である、な・・・ 太宰治 「春の盗賊」
・・・なまけ者の空想ほど、ばかばかしく途方もないものはない。悪事千里、というが、なまけ者の空想もまた、ちょろちょろ止めどなく流れ、走る。何を考えているのか。この男は、いま、旅行に就いて考えている。汽車の旅行は退屈だ。飛行機がいい。動揺がひどいだろ・・・ 太宰治 「懶惰の歌留多」
・・・若い時分には、読みだした本をおしまいまで読まないのが悪事であるような気がしたのであるが、今では読みたくない本を無理に読むことは第一できないしまた読むほうが悪いような気がする。時には小説などを終わりのほうから逆にはじめのほうへ読むのもおもしろ・・・ 寺田寅彦 「読書の今昔」
出典:青空文庫