・・・ 二三軒隣では、人品骨柄、天晴、黒縮緬の羽織でも着せたいのが、悲愴なる声を揚げて、殆ど歎願に及ぶ。「どうぞ、お試し下さい、ねえ、是非一回御試験が仰ぎたい。口中に熱あり、歯の浮く御仁、歯齦の弛んだお人、お立合の中に、もしや万一です。口・・・ 泉鏡花 「露肆」
・・・ こうして、鶴さんとオトラ婆さんの隣同士のややこしい別居生活が始まって間もなく、サイパン島の悲愴なニュースが伝えられた。「やっぱし、飛行機だ。俺は今の会社をやめる」 と、突然照井がいいだした。そして、自分たちがニューギニアでまる・・・ 織田作之助 「電報」
・・・酔いが進むに連れて、ひとりで悲愴がって、この会合全体を否定してみたり、きざに異端を誇示しようと企んだり、或いは思い直して、いやいやここに列席している人たちは、みな一廉の人物なのだ、優しく謙虚な芸術家なのだ、誠実に、苦労して生きて来た人たちば・・・ 太宰治 「善蔵を思う」
・・・犬は驚いてひいひいと悲愴な声を立てた。三次が手を放した時犬は四つ足を屈めて地を偃うように首を垂れて身を蹙めた。そうして盗むように白い眼で三次を見た。犬がひいひい鳴いた時太十はむっくり起きた。彼の神経は過敏になって居た。「おっつあん」・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・ロシアの作曲家チャイコフスキーを題材とした「悲愴交響曲」という作品がある。二男は歴史家であるゴロ・マン。次女モニカはハンガリーの美術史家の妻。三男ミハエルはヴァイオリニスト。末娘のエリザベート・マンがピアニストで、イタリーの反ファシスト評論・・・ 宮本百合子 「明日の知性」
・・・ 菊池寛は、歴史的題材をあつかったあらゆるテーマ小説で、封建的な勇壮の観念、悲愴の伝統、絶対性への屈服、恩と云い讐というものの実体等に対して、真正面からの追究を試みている。菊池寛は文学的出発において、バアナード・ショウの影響を蒙って一種・・・ 宮本百合子 「鴎外・芥川・菊池の歴史小説」
この春新響の演奏したチャイコフスキーの「悲愴交響楽」は、今も心のなかに或る感銘をのこしている。一度ならず聴いているこの交響楽から、あの晩、特別新鮮に深い感動を与えられたのはおそらく私一人ではなかったろうと思う。 十九世・・・ 宮本百合子 「音楽の民族性と諷刺」
・・・従って詩吟という一つの朗吟法が持っているメロディーは非常に緊迫した悲愴の味であり、テムポから云えば当然昔の武士が腰に大小を挾み、袴の裾をさばきながら、体を左右に大きく振り頭を擡げてゆっくり歩きながら吟じられるように出来ている。詩吟とはそうい・・・ 宮本百合子 「今日の生活と文化の問題」
・・・ これらの婦人たちは、最後にたよりになるのは天地の間に自分しかない、という悲愴な決意をした人々である。あらゆる歴史の波瀾の間で人間が最後のよりどころはただ一人、自分があるだけだと観じた場合は実に多かった。それは気力をふるい立たせ、計画あ・・・ 宮本百合子 「世界の寡婦」
・・・男女関係で、獣の牡牝にひとしい挙止を見た日本の自然主義の作家たちは、我知らずこれまでの日本の男らしい立場で、そのような牡である自身を人間的な悲愴さで眺め解剖しつつ、そういう牡である男に対手となる女が、はたして男が牡であると同量にあるいはその・・・ 宮本百合子 「若き世代への恋愛論」
出典:青空文庫