・・・眼前を過ぎる幻像を悲痛のために強直した顔の表情で見詰めながら、さながら鍵盤にのしかかるようにして弾いているショパンの姿が、何か塹壕から這い出して来る決死隊の一人ででもあるような気がするのである。 リストが音楽商の家の階段を気軽にかけ上が・・・ 寺田寅彦 「映画雑感6[#「6」はローマ数字、1-13-26]」
・・・ピエール・ロチは欧洲人が多年土耳古を敵視し絶えずその領土を蚕食しつつある事を痛嘆して『苦悩する土耳古』と題する一書を著し悲痛の辞を連ねている。日本と仏蘭西とは国情を異にしている。大正改元の頃にはわたくしも年三十六、七歳に達したので、一時の西・・・ 永井荷風 「正宗谷崎両氏の批評に答う」
・・・彼は更に次の日の夕方生来嘗てない憤怒と悲痛と悔恨の情を湧かした。それは赤が死んだ日に例の犬殺しが隣の村で赤犬を殺して其飼主と村民の為に夥しくさいなまれて、再び此地に足踏みせぬという誓約のもとに放たれたということを聞いたからである。彼は其夜も・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・の如き詩は、その情感の深く悲痛なることに於て、他に全く類を見ないニイチェ独特の名篇である。これら僅か数篇の名詩だけでも、ニイチェは抒情詩人として一流の列に入り得るだらう。 ニイチェのショーペンハウエルに対する関係は、新約全書の旧約全・・・ 萩原朔太郎 「ニイチェに就いての雑感」
・・・けれどもそれはいよいよつめたい高原の悲痛を増すばかりでした。 そしていつか薄明は黄昏に入りかわられ、苔の花も赤ぐろく見え西の山稜の上のそらばかりかすかに黄いろに濁りました。 そのとき私ははるかの向うにまっ白な湖を見たのです。(水・・・ 宮沢賢治 「インドラの網」
・・・ 忠一が悲痛らしく眉を顰めて、「何にしろ、蝦姑だろうね」といった。「全くさ」 大きな声で、廊下から篤介が怒鳴った。「蝦姑にするたあ洒落くせえ!」「でも、本当に、海老なかったのかしら」 小さい声で、思い出したよ・・・ 宮本百合子 「明るい海浜」
・・・ マルクスがイエニーを失った悲しみにうちかって資本論を完成しようとした努力は、寧ろ悲痛な姿であった。カールはフランスに行き、スイスにゆき、今度こそ丈夫になって帰ろうとした。しかし、イエニーのいない地球のあらゆる土地は、彼の体と心とに・・・ 宮本百合子 「カール・マルクスとその夫人」
・・・ これに反して、厄難に会ってからこのかた、いつも同じような悔恨と悲痛とのほかに、何物をも心に受け入れることのできなくなった太郎兵衛の女房は、手厚くみついでくれ、親切に慰めてくれる母に対しても、ろくろく感謝の意をも表することがない。母がい・・・ 森鴎外 「最後の一句」
・・・ 天才はその悲痛な運命の愛によってのみ非凡であった。彼らは多くを与えられた事よりも、むしろ多くを最もよく生かした事において偉大であった。私はその驚嘆すべき誠実のゆえにのみ彼らの前にひざまずく。 そして私は自分に聞く。――お前は誠実か・・・ 和辻哲郎 「生きること作ること」
・・・それは人類の悩みを一身に担いおおせた悲痛な顔である。そして額の上には永遠にしぼむことのない月桂樹の冠が誇らしくこびりついている。 この顔こそは我らの生の理想である。四 苦患を堪え忍べ。 苦患に堪える態度は一つしかない・・・ 和辻哲郎 「ベエトォフェンの面」
出典:青空文庫