・・・もしもの事があったら老い衰えた両親や妻子はどうなるのだと思うと満身の血潮は一時に頭に漲る。悶え苦しさに覚えず唸り声を出すと、妻は驚いてさし覗いたが急いで勝手の方へ行って氷を取りかえて来た。一時に氷が増してよく冷えると見えて、少し心が落付いた・・・ 寺田寅彦 「枯菊の影」
・・・同じ陳列台の前を行ったり来たりしている女の顔には、どうかすると迷いや悶えやの気の毒な表情がありあり読まれる事もある。 婦人の美服に対する欲望は、通例虚栄心という簡単な言葉で説明されているようである。かつて何かの雑誌で「万引きの心理」とい・・・ 寺田寅彦 「丸善と三越」
・・・雪江が私の机の側へ来て、雑誌などを読んでいるときに、それとなく話しかける口吻によってみると、彼女には幾分の悶えがないわけにはいかなかった。学校を出てから、東京へ出て、時代の新しい空気に触れることを希望していながら、固定的な義姉の愛に囚われて・・・ 徳田秋声 「蒼白い月」
・・・どうかすると、兄は悶えながら起きあがって、痩せた膝に両手を突きながら、体をゆすりゆすり苦痛を怺えていた。「人の知らない苦労するよ」 我慢づよい兄の口からそう言われると、道太は自分の怠慢が心に責められて、そう遠いところでもないのに、な・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・そいつもむつかしくなるんだ。悶え始めるだろう。 お前は、肥っていて、元気で、兇暴で、断乎として殺戮をほしいままにしていた時の快さを思い出すだろう。それに今はどうだ。 虱はおろかお前の大小便さえも自由にならないんだ。血を飲みすぎたんで・・・ 葉山嘉樹 「牢獄の半日」
・・・燃え叫ぶ六疋は、悶えながら空を沈み、しまいの一疋は泣いて随い、それでも雁の正しい列は、決して乱れはいたしません。 そのとき須利耶さまの愕ろきには、いつか雁がみな空を飛ぶ人の形に変っておりました。 赤い焔に包まれて、歎き叫んで手足をも・・・ 宮沢賢治 「雁の童子」
・・・よきにつけあしきにつけ主動的であり、積極的である男心に添うて、娘としては親のために、嫁いでは良人のために、老いては子のために自分の悲喜を殺し、あきらめてゆかねばならない女心の悶えというものを、近松は色彩濃やかなさまざまのシチュエーションの中・・・ 宮本百合子 「新しい船出」
・・・小説的な捉えかたかもしれないけれども、苦しんでいるイレーネが、自分の悶えを皮相的利己主義だと片づけて云われているのを洩れ聞くところから、その心のたたかいがはじまり母ジェニファーの成熟とババの明るい自然さと絡んで展開されて行ったら、この「早春・・・ 宮本百合子 「雨の昼」
・・・こういう社会の眺めは、よく生きたいと思っているすべての男女の精神を苦しめているし、実現しにくい愛に悶えさせている。この時の、爆発的に言われる堕落せよという声は、多くの人を物見高い心持から引きつける。 ところで私達は、性的経験の中にだけ人・・・ 宮本百合子 「人間の結婚」
・・・しかし生得、人の悶え苦しんだり、泣き叫んだりするのを見たがりはしない。物事がおだやかに運んで、そんなことを見ずに済めば、その方が勝手である。今の苦笑いのような表情は人に難儀をかけずには済まぬとあきらめて、何か言ったり、したりするときに、この・・・ 森鴎外 「山椒大夫」
出典:青空文庫