・・・十三日名古屋市の大火は焼死者十余名に及んだが、横関名古屋市長なども愛児を失おうとした一人である。令息武矩はいかなる家族の手落からか、猛火の中の二階に残され、すでに灰燼となろうとしたところを、一匹の黒犬のために啣え出された。市長は今後名古屋市・・・ 芥川竜之介 「白」
・・・永久に神の清き愛児たるべき処女よ。腰に帯して立て」 その言葉は今でもクララの耳に焼きついて消えなかった。そしてその時からもう世の常の処女ではなくなっていた。彼女はその時の回想に心を上ずらせながら、その時泣いたように激しく泣いていた。・・・ 有島武郎 「クララの出家」
・・・これわれと永久に別れて無究に相見ず、われは北極の氷と化し君は南極の石となりて、感ぜず思わず、限りなく相見ずと思いたもうともなお忍びたもうことを得るや。愛児を失いし人は始めて死の淵の深きに驚き悲しむと言い伝う、わが知れる宗教家もしかいえり。こ・・・ 国木田独歩 「わかれ」
・・・大衆を啓蒙すべきか、二、三の法種を鉗鎚すべきか、支那の飢饉に義捐すべきか、愛児の靴を買うべきかはアプリオリに選択できることではない。個々の価値、個々の善を見ずして、あらゆる場合に正しき選択をなし得るような一般的心術そのものをきめようとする倫・・・ 倉田百三 「学生と教養」
・・・北村君は石坂昌孝氏の娘に方る、みな子さんを娶って、二十五歳の時には早や愛児のふさ子さんが生れて居た。北村君は思い詰めているような人ではあったが、一方には又磊落な、飄逸な処があって、皮肉も云えば、冗談も云って、友達を笑わすような、面白い処もあ・・・ 島崎藤村 「北村透谷の短き一生」
・・・肺炎になってしまってからの愛児の看護に骨を折るよりも、風邪を引かせぬ予防法、引いたときに昂じさせぬ工夫に一倍の頭を使う方が合理的である。 凶作の原因は大体においては明白である。稲の正当な発育には一定量の日照並びに気温の積分的作用が必要で・・・ 寺田寅彦 「新春偶語」
・・・そのうちに知人のある者は保養地で疫痢のために愛児を亡くしたりした。それでもう海水浴というものが恐ろしくなって、泊りがけに行く気にはなれなくなってしまった。それでも一度も行かないのは子供等に気の毒なような気がするので、日返り旅行という事を考え・・・ 寺田寅彦 「小さな出来事」
・・・近くは三十七年の夏、悲惨なる旅順の戦に、ただ一人の弟は敵塁深く屍を委して、遺骨をも収め得ざりし有様、ここに再び旧時の悲哀を繰返して、断腸の思未だ全く消失せないのに、また己が愛児の一人を失うようになった。骨肉の情いずれ疎なるはなけれども、特に・・・ 西田幾多郎 「我が子の死」
・・・ 竹内てるよさんは、カリエスという病が不治であることのため徹也という愛児をおいて家を去り、貧窮の底をくぐって、今は、療養の伴侶であり、友である神谷暢氏と夫婦でない、結婚生活でない共同生活を十三年営んでおられる。「苦しみぬき、もま・・・ 宮本百合子 「『静かなる愛』と『諸国の天女』」
・・・ 舟橋聖一氏が四月号の『文芸』に「愛児煩悩」という短篇をかいておられるが、そこにも女学校入学試験のために苦しむ親の心、子の心が語られていて印象にのこった。口頭試問というものが、いろいろむずかしい問題をふくんでいるということが、この小説か・・・ 宮本百合子 「新入生」
出典:青空文庫