・・・ さほ子は、懸命な声で、「いいえ、いいえ。其どころじゃあないわ」と打ち消した。 そして、生えぎわの美しい千代の下げた頸筋を苦しそうに見下しながら、いたたまれないように何遍も何遍も、落ちていもしない髪をかきあげた。 千代は・・・ 宮本百合子 「或る日」
・・・ 戦争に敗けて国民が生活の苦しさにあえいでいる時、賢いと自負している男達の中にはまだまだ小慧しい小細工を弄し政治界等に勢力を張ろうと懸命になっているものがありますが、今こそ女の人はほんとうに賢くなり正しく立派な自分達のための代表者を選び・・・ 宮本百合子 「家庭裁判」
・・・ それから後の数年の間に、私は日本の知識階級出の一婦人作家としては懸命な発展への道を辿り、訳者は、日本にであろうかベルリンにであろうかドイツ婦人の妻とその間に生れた子供をのこして早世した。 このローザの書翰集の粗末に扱われていたんで・・・ 宮本百合子 「生活の道より」
・・・ 一生懸命にもがけばもがくほど、枷はしっかりと食いこんで来るように、僅かの機会でも利用して借金も軽め生活も楽にさせたいとあせればあせるほど、経済は四離滅裂になって来る。 ガタガタになり始めた隅々から、貧しさは止度もなく流れこんで、哀・・・ 宮本百合子 「禰宜様宮田」
・・・ 婆さんは懸命に去年見た、お染久松の芝居を思い出して話してきかせた。お染の「かつら」が合わないで地頭が見えて居たとか、メリンスの着物を着ていたとか、脚絆をはかないので見っともなかったとか云って居る。祖母も私も笑ってきいて居る。こんな・・・ 宮本百合子 「農村」
・・・あなたが誰と知合になられたとか、誰と芝居へおいでになったとか云うことを、わたくしは一しょう懸命になって探索したのです。あのころ御亭主は用事があってロンドンへ往っておいでになると云うことでしたから。 女。ええ。あの時のあなたの御様子は、ま・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「最終の午後」
・・・ですから一しょう懸命に「けっこう、けーっーこーう」とどならなくてはなりませんでした。まるで雄鶏が時をつくるようでございましたわね。あれが軟い、静かな二頭曳の馬車の中でしたら、わたくしは俯目になって、小さい声で、「結構でございますわ」とかなん・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「辻馬車」
・・・フィンクはその影がどこへ落ち着くか見定めようと、一しょう懸命に見詰めている。しかし影は声もなく真の闇の中に消えてしまう。そしてどこかで長椅子がぎいぎいいう。旅人が腰を据えたのであろう。 部屋の中はまたひっそりする。その時フィンクは疲れて・・・ 著:リルケライネル・マリア 訳:森鴎外 「白」
・・・しまッたと思いながらなお懸命に追い駈けて行く。電車はだんだん早くなる。それを見てとても乗れまいという気がしたので、私はふと立ち留まった。その瞬間にあれに乗らなければ遅れるかも知れないと思った。それですぐまた全速力で飛び出せば無理にのれない事・・・ 和辻哲郎 「停車場で感じたこと」
・・・尊き内的生命を放棄してただ懸命にすがる命の綱が一筋切れ二筋絶ち、まさに絶望に瀕している。社会主義の叫喚はたちまち響きわたる。「わが細き生命の綱を哀れめ、安全を保する太き綱を与えよ」と叫ぶ。冷ややけき世人は前世の因と説き運命と解き平然として哀・・・ 和辻哲郎 「霊的本能主義」
出典:青空文庫