・・・ある曇った日の午後、私はその展覧会の各室を一々叮嚀に見て歩いて、ようやく当時の版画が陳列されている、最後の一室へはいった時、そこの硝子戸棚の前へ立って、古ぼけた何枚かの銅版画を眺めている一人の紳士が眼にはいった。紳士は背のすらっとした、どこ・・・ 芥川竜之介 「開化の良人」
・・・ お蓮は犬を板の間へ下すと、無邪気な笑顔を見せながら、もう肴でも探してやる気か、台所の戸棚に手をかけていた。 その翌日から妾宅には、赤い頸環に飾られた犬が、畳の上にいるようになった。 綺麗好きな婆さんは、勿論この変化を悦ばなかっ・・・ 芥川竜之介 「奇怪な再会」
・・・と衝と茶の間を抜ける時、襖二間の上を渡って、二階の階子段が緩く架る、拭込んだ大戸棚の前で、入ちがいになって、女房は店の方へ、ばたばたと後退りに退った。 その茶の室の長火鉢を挟んで、差むかいに年寄りが二人いた。ああ、まだ達者だと見える。火・・・ 泉鏡花 「国貞えがく」
・・・静岡の何でも町端れが、その人の父が其処の屋敷に住んだところ、半年ばかりというものは不思議な出来事が続け様で、発端は五月頃、庭へ五六輪、菖蒲が咲ていたそうでその花を一朝奇麗にもぎって、戸棚の夜着の中に入れてあった。初めは何か子供の悪戯だろうく・・・ 泉鏡花 「一寸怪」
・・・兵エが一昨日来やがって、村の鍛冶に打たせりゃ、一丁二十銭ずつだに、お前の鎌二十二銭は高いとぬかすんです、それから癪に障っちゃったんですから、お前さんの銭ゃお前さんの財布へしまっておけ、おれの鎌はおれの戸棚へ終って措くといって、いきなり鎌を戸・・・ 伊藤左千夫 「姪子」
・・・ 二十年前までは椿岳の旧廬たる梵雲庵の画房の戸棚の隅には椿岳の遺作が薦縄搦げとなっていた。余り沢山あるので椽の下に投り込まれていたものもあった。寒月の咄に由ると、くれろというものには誰にでも与ったが、余り沢山あったので与り切れず、その頃・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・この意味に於いて、総発売元は各支店へ戸棚二個、欅吊看板二枚、紙張横額二枚、金屏風半双を送付する。よって、その実費として、二百円送金すべし。その代り、百円分の薬を無代進呈する。 ……いきなり二百円を請求された支店長たちは、まるで水を浴びた・・・ 織田作之助 「勧善懲悪」
・・・やはりお人好のお婆さんと二人でせっせと盆に生漆を塗り戸棚へしまい込む。なにも知らない温泉客が亭主の笑顔から値段の応対を強取しようとでもするときには、彼女は言うのである。「この人はちっと眠むがってるでな……」 これはちっとも可笑しくな・・・ 梶井基次郎 「温泉」
・・・みちみち源叔父は、わが帰りの遅かりしゆえ淋しさに堪えざりしか、夕餉は戸棚に調えおきしものをなどいいいい行けり。紀州は一言もいわず、生憎に嘆息もらすは翁なり。 家に帰るや、炉に火を盛に燃きてそのわきに紀州を坐らせ、戸棚より膳取り出だして自・・・ 国木田独歩 「源おじ」
・・・お徳の部屋の戸棚の下を明けて当分ともかく彼処へ炭を入れることにしたら。そしてお徳の所有品は中の部屋の戸棚を整理けて入れたら」と細君が一案を出した。「それじゃアそう致しましょう」とお徳は直ぐ賛成した。「お徳には少し気の毒だけれど」と細・・・ 国木田独歩 「竹の木戸」
出典:青空文庫