・・・ 私たちは池の手前岸にしゃがんで、そうした光景を眺めながら、会話を続けた。「いったい君は、今度の金を返す意志なのか、意志でないのか、はっきりと言ってみたまえ」彼はこういった調子で、追求してくるのだ。「そりゃ返す意志だよ。だから…・・・ 葛西善蔵 「遁走」
・・・そして二三間手前で、思い切って、「何か落し物をなさったのですか」 とかなり大きい声で呼びかけてみました。手の燐寸を示すようにして。「落し物でしたら燐寸がありますよ」 次にはそう言うつもりだったのです。しかし落し物ではなさそう・・・ 梶井基次郎 「Kの昇天」
・・・それからその前お茶の手前が上がったとおっしゃって、下すったあの仁清の香合なんぞは、石へ打つけて破してしまうからいいわ。 善平はさらに掛構いもなく、天井を見てにこにこ笑いながら、いやもう綱雄は実にあっぱれな男さ。 また、また、父様はも・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・なんだろう、私に見てもらいたいというのは』『なんでもいいから、ただ見てもらえばいいのだ』『どんなものだい、品物かい』と問いますと武の奴、妙な笑いかたをして、『あなたの大すきなものだ』『手前はおれをなぶるなッ』『なぶるのじ・・・ 国木田独歩 「女難」
・・・ 兵士達は、ようよう村に這入る手前の丘にまでやって来た。 彼等はうち方をやめて、いつでも攻撃に移り得る用意をして、姿勢を低く草かげに散らばった。「ここの奴等は、だいぶいいものを持っていそうだぞ。」 永井は、村なりを見て掠奪心・・・ 黒島伝治 「パルチザン・ウォルコフ」
・・・憑かれたあげくが死神にまで憑かれたと自ら思ったほどに浮世の苦酸を嘗めた男であったから、そういう感じが起ると同時にドッコイと踏止まることを知っているので、反撃的の言葉などを出すに至るべき無益と愚との一歩手前で自ら省みた。「ヤ、あの鶏は実に・・・ 幸田露伴 「鵞鳥」
・・・夕陽が向う側の監獄の壁を赤く染めて、手前の庭の半分に、煉瓦建の影を斜めに落していた。――それは日が暮れようとして、しかもまだ夜が来ていない一時の、すべてのものがその動きと音をやめている時だった。私はそのなごやかな監獄風景を眺めながら、たゞお・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・雄が出した即題をわたしより歳一つ上のお夏呼んでやってと小春の口から説き勧めた答案が後日の崇り今し方明いて参りましたと着更えのままなる華美姿名は実の賓のお夏が涼しい眼元に俊雄はちくと気を留めしも小春ある手前格別の意味もなかりしにふとその後俊雄・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・おげんは熊吉の案内で坂の下にある電車の乗場から新橋手前まで乗った。そこには直次が姉を待合せていた。直次は熊吉に代って、それから先は二番目の弟が案内した。 小石川の高台にある養生園がこうしたおげんを待っていた。最後の「隠れ家」を求めるつも・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・と言っているうちに、馬車は、十四、五間手前で、ぱたりととまりました。「おや。」と思って見ていますと、巡査は、先に針金の輪のついた、へんな棒きれをもったまま、馬車を下りて、そこの横丁へはいっていきました。と、一分間もたたないうちに、巡査は・・・ 鈴木三重吉 「やどなし犬」
出典:青空文庫