・・・「へえ、昨年新築致しましたんで、一夏お貸ししただけでございます。手前どもでは、よそのようにどんな方にでもお貸ししたくないもんですから……どうも御病人は、ねえあなた」 筒袖絆纏を着た六十ばかりの神さんが、四畳の方の敷居の外からそのよう・・・ 宮本百合子 「明るい海浜」
・・・ するとモンチヴィエーの馬商がかれに向かって怒鳴った、『よしてくれ、よしてくれ古狸、手前の糸の話ならおれはみんな知っている!』 アウシュコルンは吃った、『だって手帳は出て来ただあ!』 相手はまた怒鳴った、『黙れ、老耄・・・ 著:モーパッサン ギ・ド 訳:国木田独歩 「糸くず」
・・・りよは涙ぐんで亀井町の手前から引き返してしまった。内へはもう叔父が浜町から帰って、荷物を片附けていた。 浜町も矢の倉に近い方は大部分焼けたが、幸に酒井家の添邸は焼け残った。神戸家へ重々世話になるのは気の毒だと云うので、宇平一家はやはり遠・・・ 森鴎外 「護持院原の敵討」
・・・「今日は忙しいのでのう、また来やれ。」 彼が柴を担いだまま中へ這入ろうとすると、「秋か?」と乞食は云った。 秋三は乞食から呼び捨てにされる覚えがなかった。「手前、俺を知っているのか?」「知るも知らんもあるものか。汝大・・・ 横光利一 「南北」
・・・五六間手前まで行くと電車は動き初めた。しまッたと思いながらなお懸命に追い駈けて行く。電車はだんだん早くなる。それを見てとても乗れまいという気がしたので、私はふと立ち留まった。その瞬間にあれに乗らなければ遅れるかも知れないと思った。それですぐ・・・ 和辻哲郎 「停車場で感じたこと」
出典:青空文庫