・・・乞食の子は喜んで、かわいい人形のほおに接吻いたしました。 やがてそこへ、おみよは白い菊の花を摘んで帰ってきますと、もう垣根のそばには、乞食の子の影が見えませんでした。そしてござのところへきて、これからごちそうをこしらえて人形にやろうと思・・・ 小川未明 「なくなった人形」
・・・ その夕方、豹一は簡単に紀代子と接吻した。女めいた口臭をかぎながらちょっとした自尊心の満足があった。けれども、紀代子が拒みもしないどころか、背中にまわした手にぐいぐい力をいれてくるのを感ずると、だしぬけに気が変った。物も言わずに突き放し・・・ 織田作之助 「雨」
・・・白い手が伸びて首に巻きつき、いきなり耳に接吻された。 あとは無我夢中で、一種特別な体臭、濡れたような触感、しびれるような体温、身もだえて転々する奔放な肢体、気の遠くなるような律動。――女というものはいやいや男のされるがままになっているも・・・ 織田作之助 「世相」
・・・乙女の星はこれを見て早くも露の涙うかべ、年わかき君の心のけだかきことよと言い、さて何事か詩人の耳に口寄せて私語き、私語きおわれば恋人たち相顧みて打ちえみつ、詩人の優しき頬にかわるがわる接吻して、安けく眠りたまえと言い言い出で去りたり。 ・・・ 国木田独歩 「星」
・・・現に私は学生時代に、修身教育しか知らなかった愛人を、ゴッホや、ベルグソンがわかり、ロダンの「接吻」にいやな顔をしないところまで、一年間で教えこんでしまった。およそ青年学生時代に恋を語り合うとき、その歓語の半分くらいは愛人教育にならないような・・・ 倉田百三 「学生と生活」
・・・深夜、裸形で鏡に向い、にっと可愛く微笑してみたり、ふっくらした白い両足を、ヘチマコロンで洗って、その指先にそっと自身で接吻して、うっとり眼をつぶってみたり、いちど、鼻の先に、針で突いたような小さい吹出物して、憂鬱のあまり、自殺を計ったことが・・・ 太宰治 「愛と美について」
・・・ 接吻して、ふたりならんで寝ころんで、「じゃあ、おわかれだ。生き残ったやつは、つよく生きるんだぞ。」 嘉七は、催眠剤だけでは、なかなか死ねないことを知っていた。そっと自分のからだを崖のふちまで移動させて、兵古帯をほどき、首に巻き・・・ 太宰治 「姥捨」
・・・ペテロやヨハネやバルトロマイ、そのほか全部の弟子共は、ばかなやつ、すでに天国を目のまえに見たかのように、まるで凱旋の将軍につき従っているかのように、有頂天の歓喜で互いに抱き合い、涙に濡れた接吻を交し、一徹者のペテロなど、ヨハネを抱きかかえた・・・ 太宰治 「駈込み訴え」
・・・ 最も変わったレコードとしては、アメリカのコーラスガールで、接吻の際における心臓鼓動数の増加が毎分十五という数字を得ているのがある。次点者は十三という数で惜敗したそうである。しかし事前におけるノルマルの鼓動数が書いてないから増加のパーセ・・・ 寺田寅彦 「記録狂時代」
・・・先生の一番目の嬢さんがまだ子供の時分この半身像にすっかりラヴしてしまって、おとうさんの椅子を踏み台にしては石像に接吻したそうです。そのさまを油絵にかかした額が客間にかかっていました。霧があって小雨が降って、誠に静かな日でした。 ゼネヴか・・・ 寺田寅彦 「先生への通信」
出典:青空文庫