・・・治療してもらっているのはどこかの奥さんらしくアッパッパを着て、スリッパをはいた両足をきちんと揃えて、仰向いています。何か日々の営みのなつかしさを想わせるような風情でした。私はふと濡れるような旅情を感ずると、にわかに生への執着が甦ってきました・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・暗い敷台の上には老師の帰りを待っているかのように革のスリッパが内へ向けて揃えられてあり、下駄箱の上には下駄が載って、白い籐のステッキなども見えたが、私の二度三度の強い咳払いにも、さらに内からは反響がなかった。お留守なのかしら?……そうも思っ・・・ 葛西善蔵 「父の出郷」
・・・歩くのじゃなしに、揃えた趾で跳ねながら、四五匹の雀が餌を啄いていた。こちらが動きもしないのに、チラと信子に気づいたのか、ビュビュと飛んでしまった。――信子はそんな話をした。「もう大慌てで逃げるんですもの。しとの顔も見ないで……」 し・・・ 梶井基次郎 「雪後」
・・・今日はどういうものかしきりと子供の時のことを想いだして、さきほども別荘の坊ちゃまたちがお庭の中で声を揃えて唱歌を歌っておいでになるのを聞いた時なんだか泣きたくなりました。 私の九つ十のころでございます、よく母に連れられて城下から三里奥の・・・ 国木田独歩 「女難」
・・・そこでは並びなき法華経の護持者としての栄冠が彼を待っていることを門弟、檀那、帰依の大衆は信じて疑わず、声をうち揃えて、南無妙法蓮華経を高らかに唱題したのであった。 毎年十月十八日の彼の命日には、私の住居にほど近き池上本門寺の御会式に・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・ やがて、彼等は、まだぬくもりが残っている豚を、丸太棒の真中に、あと脚を揃えて、くゝりつけ、それをかついで炊事場へ持ちかえった。逆さまに吊られた口からは、血のしずくが糸を引いて枯れ草の平原にポタ/\と落ちた。「お前ら、出て行くさきに・・・ 黒島伝治 「前哨」
・・・そして揃えて出した俺の両手首にそれをはめた。鉄の冷たさが、吃驚させる程ヒヤリときた。「冷てえ!」 俺は思わず手をひッこめた。「冷てえ?――そうか、そうか。じゃ、シャツの袖口をのばしたり。その上からにしよう。」「有難てえ。頼む・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・も地に沈むかと疑われるばかりの不規則な力の無い歩みを運びながら、洋服で腕組みしたり、頭を垂れたり、あるいは薄荷パイプを啣えたりして、熱い砂を踏んで行く人の群を眺めると、丁度この濠端に、同じような高さに揃えられて、枝も葉も切り捨てられて、各自・・・ 島崎藤村 「並木」
・・・不精なお方だから、私が黙って揃えて置けば、なんだこんなもの、とおっしゃりながらも、心の中ではほっとして着て下さるのだろうが、どうも寸法が特大だから、出来合いのものを買って来ても駄目でしょう。むずかしい。 主人も今朝は、七時ごろに起きて、・・・ 太宰治 「十二月八日」
・・・ブルガリヤから来ているチンネフ君は、いろいろ日本の事を聞きたがって私と並んで足を揃えて歩いた。聞かれてみると私は日本の事を何にも知らないのであった。…… 日暮れにツウム・ワイセン・ヒルシュという宿屋についた。食後にみんなが学生の唱歌を歌・・・ 寺田寅彦 「異郷」
出典:青空文庫