・・・がらりと気を替えて、こうべ肉のすき焼、ばた焼、お望み次第に客を呼んで、抱一上人の夕顔を石燈籠の灯でほの見せる数寄屋づくりも、七賢人の本床に立った、松林の大広間も、そのままで、びんちょうの火を堆く、ひれの膏をにる。 この梅水のお誓は、内の・・・ 泉鏡花 「燈明之巻」
・・・糸塚さ、女様、素で括ったお祟りだ、これ、敷松葉の数寄屋の庭の牡丹に雪囲いをすると思えさ。」「よし、おれが行く。」 と、冬の麦稈帽が出ようとする。「ああ、ちょっと。」 袖を開いて、お米が留めて、「そのまま、その上からお結え・・・ 泉鏡花 「縷紅新草」
・・・それから何も物の書けないような可傷しい状態になって、数寄屋橋の煙草屋の二階へ帰る事になった。北村君と阿母さんとの関係は、丁度バイロンと阿母さんとの関係のようで、北村君の一面非常に神経質な処は、阿母さんから伝わったのだ。それに阿母さんという人・・・ 島崎藤村 「北村透谷の短き一生」
・・・ 去年の夏数寄屋橋の電車停留場安全地帯に一人の西洋婦人が派手な大柄の更紗の服をすそ短かに着て日傘をさしているのを見た。近づいて見ると素足に草履をはいている。そうして足の指の爪を毒々しいまっかな色に染めているのであった。なんとも言われぬ恐・・・ 寺田寅彦 「自由画稿」
・・・ こんなことを考えながら歩いているうちに、いつのまにか数寄屋橋に出た。明るい銀座の灯が暗い空想を消散させた。 紫色のスウィートピーを囲んだ見合いらしいはなやかな晩餐の一団と、亀井戸への道を聞いた寒そうな父子との偶然な対照的な取り合わ・・・ 寺田寅彦 「蒸発皿」
・・・あアお午後ぶらぶらと向を出て八時なら八時に数寄屋橋まで著けろと云や、丁と其時間に入ったんでさ。……ああ、面白えこともあった。苦しいこともあった。十一の年に実のお袋の仕向が些と腑におちねえことがあって、可愛がってくれた里親の家から、江戸へ逃げ・・・ 徳田秋声 「躯」
・・・当時池之端数寄屋町の芸者は新柳二橋の妓と頡頏して其品致を下さなかった。さればこの時代に在って上野の風景を記述した詩文雑著のたぐいにして数寄屋町の妓院に説き及ばないものは殆無い。清親の風景板画に雪中の池を描いて之に妓を配合せしめたのも蓋偶然で・・・ 永井荷風 「上野」
・・・次は数寄屋橋、お乗換の方は御在いませんか。」「ありますよ。ちょいと、乗りかえ。本所は乗り換えじゃないんですか。」髪を切り下げにした隠居風の老婆が逸早く叫んだ。 けれども車掌は片隅から一人々々に切符を切て行く忙しさ。「往復で御在います・・・ 永井荷風 「深川の唄」
出典:青空文庫