文政四年の師走である。加賀の宰相治修の家来に知行六百石の馬廻り役を勤める細井三右衛門と云う侍は相役衣笠太兵衛の次男数馬と云う若者を打ち果した。それも果し合いをしたのではない。ある夜の戌の上刻頃、数馬は南の馬場の下に、謡の会・・・ 芥川竜之介 「三右衛門の罪」
・・・またそれよりも、真珠の首飾見たようなものを、ちょっと、脇の下へずらして、乳首をかくした膚を、お望みの方は、文政壬辰新板、柳亭種彦作、歌川国貞画――奇妙頂礼地蔵の道行――を、ご一覧になるがいい。 通り一遍の客ではなく、梅水の馴染で、昔から・・・ 泉鏡花 「燈明之巻」
・・・法入念差上来候間年増し御疱瘡流行の折ふし御軽々々御仕上被遊候御言葉祝ひのかるかるやき水の泡の如く御いものあとさへ取候御祝儀御進物にはけしくらゐほどのいもあとも残り不申候やうにぞんじけしをのぞき差上候処文政七申年はしか流行このかた御用重なる御・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
一「武蔵野の俤は今わずかに入間郡に残れり」と自分は文政年間にできた地図で見たことがある。そしてその地図に入間郡「小手指原久米川は古戦場なり太平記元弘三年五月十一日源平小手指原にて戦うこと一日がうちに三十余た・・・ 国木田独歩 「武蔵野」
・・・文化文政の頃に成りたる風土記稿にしるせる如く、今も昔の定めを更えで二七の日をば用いるなるべし。昼餉を終えたれど暑さ烈しければ、二時過ぐる頃ようやく立出ず。 四方の山々いよいよ近づくを見るのみ、取り出でていうべき眺望あるところにも出会わね・・・ 幸田露伴 「知々夫紀行」
・・・時、文政九年也。その年帰郷し、以後五十余年間、三備地方を巡遊、箏曲の教授をなす。傍ら作曲し、その研究と普及に一生涯を捧げた。座頭の位階を返却す。検校の位階を固辞す。金銭だに納付せば位階は容易に得べき当時の風習をきたなきものに思い、位階は金銭・・・ 太宰治 「盲人独笑」
・・・ 大阪の天王寺の五重塔が倒れたのであるが、あれは文化文政頃の廃頽期に造られたもので正当な建築法に拠らない、肝心な箇所に誤魔化しのあるものであったと云われている。 十月初めに信州へ旅行して颱風の余波を受けた各地の損害程度を汽車の窓から・・・ 寺田寅彦 「颱風雑俎」
・・・江戸でも慶長寛永寛政文政のころの記録がある。耽奇漫録によると文政七年の秋降ったものは、長さの長いのは一尺七寸もあったとある。この前後伊豆大島火山が活動していた事が記録されているが、この時ちょうど江戸近くを通った台風のためにぐあい・・・ 寺田寅彦 「化け物の進化」
・・・宝暦以後、文学の中心が東都に移ってから、明和年代に南畝が出で、天明年代に京伝、文化文政に三馬、春水、天保に寺門静軒、幕末には魯文、維新後には服部撫松、三木愛花が現れ、明治廿年頃から紅葉山人が出た。以上の諸名家に次いで大正時代の市井狭斜の風俗・・・ 永井荷風 「正宗谷崎両氏の批評に答う」
・・・如亭も江戸の人で生涯家なく山水の間に放吟し、文政の初に平安の客寓に死したのである。 遠山雲如の『墨水四時雑詠』には風俗史の資料となるべきものがある。島田筑波さんは既に何かの考証に関してこの詩集中の一律詩を引用しておられたのを、わたくしは・・・ 永井荷風 「向嶋」
出典:青空文庫