・・・小さい並木路を下るときには、振り仰いで新緑の枝々を眺め、まあ、と小さい叫びを挙げてみて、土橋を渡るときには、しばらく小川をのぞいて、水鏡に顔をうつして、ワンワンと、犬の真似して吠えてみたり、遠くの畠を見るときは、目を小さくして、うっとりした・・・ 太宰治 「女生徒」
・・・ 野も山も新緑で、はだかになってしまいたいほど温く、私には、新緑がまぶしく、眼にちかちか痛くって、ひとり、いろいろ考えごとをしながら帯の間に片手をそっと差しいれ、うなだれて野道を歩き、考えること、考えること、みんな苦しいことばかりで息が・・・ 太宰治 「葉桜と魔笛」
・・・父は庭の新緑を眺めながら、「ひまを出します。結婚の約束をしたそうですが、」幽かに笑って、「まさか君も、本気で約束したわけじゃあないでしょう?」「誰が言ったんです! 誰が!」矢庭に勝治は、われがねの如き大声を発した。「ちくしょう!」どんと・・・ 太宰治 「花火」
・・・山の新緑が美しい。山腹には不規則にいろいろな建物が重なり合って立っている。みんな妙によごれくすんでいるが、それがまたなんとも言われないように美しい絵になっている。それは絵はがきや錦絵の美しさではなくて、どうしても油絵の美しさである。……・・・ 寺田寅彦 「旅日記から(明治四十二年)」
・・・ただ宇治川の流れと、だらだらした山の新緑が、幾分私の胸にぴったりくるような悦びを感じた。 大阪の町でも、私は最初来たときの驚異が、しばらく見ている間に、いつとなしにしだいに裏切られてゆくのを感じた。経済的には膨脹していても、真の生活意識・・・ 徳田秋声 「蒼白い月」
・・・これはまた、何と低い新緑の茂み! 背の低い樹々が枝から枝へ連って山々、谿々を埋めている。寒い土地の初夏という紛れない感じで感歎した。 青島は、なかなか有名だ。大抵の人が知っていた、是非行って見ろと云う。去年両親が旅行した時もわざわざ宮崎・・・ 宮本百合子 「九州の東海岸」
・・・ナチスの降服した年の五月、ケーテは、どんな思いにもえて、ドレスデンの新緑を眺めただろう。 ケーテ・コルヴィッツの死がつたえられるとニューヨークのセント・エチェンヌ画廊で、ケーテの追悼展覧会が開かれた。そこでケーテの未発表の木版画や「五十・・・ 宮本百合子 「ケーテ・コルヴィッツの画業」
この頃の新緑の美しさ。私は、毎朝目を醒ますと、先ず庭を観るのが一つの悦びだ。空がよく晴れて、日光がキラキラする梢の鮮かな姿を見るのもたのしいし、又は、今朝のような雨に煙とけ、一層陰翳ふかい緑にしたたる様子を眺めるのも快い。・・・ 宮本百合子 「新緑」
・・・窪地に廃墟が立ち、しかし樹木はこの初夏格別に美しい新緑をつけた。高低のあるこの辺の地勢は風景画への興味を動かすのである。ほんとうに、ことしの新緑の美しかったこと。地べたの中にアルカリが多くなっていたせいか、新緑は、いつもの年よりも遙かに透明・・・ 宮本百合子 「田端の汽車そのほか」
・・・道のつき当りから山手にかかって、遙か高みの新緑の間に、さっぱりした宏壮な洋館が望まれる。ジャパン・ホテルと云うのはあれだろう。海の展望もありなかなかよさそうなところと、只管支那街らしい左右の情景に注意を奪われて居ると、思いがけない緑色の建物・・・ 宮本百合子 「長崎の一瞥」
出典:青空文庫