・・・甚太夫は平太郎の死に責任の感を免れなかったのか、彼もまた後見のために旅立ちたい旨を申し出でた。と同時に求馬と念友の約があった、津崎左近と云う侍も、同じく助太刀の儀を願い出した。綱利は奇特の事とあって、甚太夫の願は許したが、左近の云い分は取り・・・ 芥川竜之介 「或敵打の話」
・・・朝ごとに河面は霧が濃くなってうす寒くさえ思われる時節となりましたので、気の早い一人の燕がもう帰ろうと言いだすと、他のもそうだと言うのでそろそろ南に向かって旅立ちを始めました。 ただやさしい形の葦となかのよくなった燕は帰ろうとはいたしませ・・・ 有島武郎 「燕と王子」
・・・「これから、自分は、バイオリンを探して旅立ちしよう。」 松蔵は、城跡の石のところにきました。そして、海の方をながめて、祈りました。「どうか、あのなつかしいバイオリンが、私の手にもどってきますように。」と、祈りました。 空を鳴・・・ 小川未明 「海のかなた」
・・・もっと遠い、寒い国へ向かって旅立ちをするのだ。私がまだ子供の時分、親たちにつれられて通ったことのある地方は、山があり、森があり、湖があり、そして、海の荒波が、白く岸に寄せているばかりで、さびしい景色ではあったが、人間や猟犬の影などを見なかっ・・・ 小川未明 「がん」
・・・ その老臣は、謹んで天子さまの命を奉じて、御前をさがり、妻子・親族・友人らに別れを告げて、船に乗って、東を指して旅立ちいたしましたのであります。その時分には、まだ汽船などというものがなかったので、風のまにまに波の上を漂って、夜も昼も東を・・・ 小川未明 「不死の薬」
・・・宝石商は、勇んで旅立ちの支度にかかりました。「いろいろお世話になりましてありがとうぞんじます。なにかお礼をすればいいのですが、いまはなにも持ち合わせがありません。いずれまたこの地方にきましたときに、お礼をいたします。」と、宝石商はい・・・ 小川未明 「宝石商」
・・・それを柳行李につめさせてなどと家のものが語り合うのも、なんとなく若者の旅立ちの前らしかった。 次郎の田舎行きは、よく三郎の話にも上った。三郎は研究所から帰って来るたびに、その話を私にして、「次郎ちゃんのことは、研究所でもみんな知って・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・なれたころ、二人は、帝国ホテルの前庭の蓮の池のほとりでお互いに顔をそむけながら力の抜けた握手を交してそそくさと別れ、その日のうちにシゲティは横浜からエムプレス・オブ・カナダ号に乗船してアメリカへむけて旅立ち、その翌る日、東京朝日新聞にれいの・・・ 太宰治 「ダス・ゲマイネ」
・・・して、まず、誰さん、某さん、おいとま乞いにお宅の庭さきに立ちて、ちりりんと鈴の音にさえわが千万無量のかなしみこめて、庭に茂れる一木一草、これが今生の見納め、断絶の思いくるしく、泣き泣き巡礼、秋風と共に旅立ち、いずれは旅の土に埋められるおのが・・・ 太宰治 「二十世紀旗手」
・・・ 知名の人の旅立ちでも、新聞があるために妙な見送り人が増して停留場が混雑する。この場合にも前と同じ事が言われうる。 展覧会、講演会、演芸、その他の観覧物も新聞広告で予告を受けて都合のいいものかもしれない。しかしこれらの大多数は十日ぐ・・・ 寺田寅彦 「一つの思考実験」
出典:青空文庫