・・・天居といっては誰も余り知るまいが、天金といったら東京の名物の一つとしてお上りさんの赤ゲットにも知られてる旗亭の主人である。天居は風雅の好事家で、珍書稀本書画骨董の蒐集家として聞えているが、近年殊に椿岳に傾倒して天居の買占が椿岳の相場を狂わし・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・青年の目と少女の目と空に合いし時、少女はさとその面を赤らめ、しばしはためらいしが急に立ちあがりかの大皿のみを左手に持ちて道にのぼり、小走りに駆け入りしは騎馬隊の兵士が常に集まりて酒飲むこの街唯一の旗亭なり。少女は軒下にて足を停め、今一度青年・・・ 国木田独歩 「わかれ」
・・・丘の頂には旗亭がある。その前の平地に沢山のテエブルと椅子が並べてあって、それがほとんど空席のないほど遊山の客でいっぱいになっている。テエブルの上には琥珀のように黄色いビイルと黒耀石のように黒いビイルのはいったコップが並んで立っている。どちら・・・ 寺田寅彦 「異郷」
・・・ 腹がへったので旗亭の一つにはいって昼飯を食った。時候はずれでそして休日でもないせいか他にお客は一人もなかった。わざわざ一人前の食膳をこしらえさせるのが気の毒なくらいであったが、しかし静かで落ち着いてたいへんに気持ちがよかった。小さな座・・・ 寺田寅彦 「写生紀行」
・・・ ホテル・ドゥ・ヴェシューヴと看板をかけた旗亭が見える。もうそこがポンペイの入り口である。入場料を払って関門を入ると、そこは二千余年前の文化の化石で、見渡す限りただ灰白色をした低い建物の死骸である。この荒涼な墓場の背景には、美しい円錐火・・・ 寺田寅彦 「旅日記から(明治四十二年)」
・・・まさか有田の乞食婆の喰っていたあの唐辛子のかかった真赤なうどんと、ポツオリの旗亭のトマトのかかった赤いスパゲッティとの類似のためであろうとも思われない。しかしこの二つの、時間的にも空間的にも遠く距れた心像をつなぎ合せている何物かがあるだけは・・・ 寺田寅彦 「二つの正月」
・・・ところが、ある夏の日に友人と二人で郊外の某旗亭へ行ってそこで半日寝ころがって蜩の声を聞きながら俳諧三昧をやった。日が暮れて帰ろうとしていたら階下で音楽が始まった。ラジオの放送音楽である。聞いてみるとそれはハイドンのトリオであった。こんな閑寂・・・ 寺田寅彦 「ラジオ雑感」
・・・家は軽快なる二階づくりで其の門墻も亦極めていかめしからざるところ、われわれの目には富商の隠宅か或は旗亭かとも思われた位で、今日の紳士が好んで築造する邸宅とは全く趣を異にしたものであった。 茅町の岸は本郷向ヶ岡の丘阜を背にし東に面して不忍・・・ 永井荷風 「上野」
・・・一日島田はかつて爾汝の友であった唖々子とわたしとを新橋の一旗亭に招き、俳人にして集書家なる洒竹大野氏をわれわれに紹介した。その時島田と大野氏とは北品川に住んでいる渋江氏が子孫の家には、なお珍書の存している事を語り、日を期してわたしにも同行を・・・ 永井荷風 「梅雨晴」
・・・魚家の妓数人が度々ある旗亭から呼ばれた。客は宰相令狐綯の家の公子で令狐※ 参照 其一 魚玄機三水小牘 南部新書太平広記 北夢瑣言続談助 唐才子伝唐詩紀事 ・・・ 森鴎外 「魚玄機」
出典:青空文庫