・・・二度の日の目は見せないから、――」 お蓮は派手な長襦袢の袖に、一挺の剃刀を蔽ったなり、鏡台の前に立ち上った。 すると突然かすかな声が、どこからか彼女の耳へはいった。「御止し。御止し。」 彼女は思わず息を呑んだ。が、声だと思っ・・・ 芥川竜之介 「奇怪な再会」
・・・もしひょっとして来なかったら――ああ、私はまるで傀儡の女のようにこの恥しい顔をあげて、また日の目を見なければならない。そんなあつかましい、邪な事がどうして私に出来るだろう。その時の私こそ、あの路ばたに捨ててある死体と少しも変りはない。辱めら・・・ 芥川竜之介 「袈裟と盛遠」
・・・そこで、日の目が見えなくなると、誰でも気味を悪るがって、この門の近所へは足ぶみをしない事になってしまったのである。 その代りまた鴉がどこからか、たくさん集って来た。昼間見ると、その鴉が何羽となく輪を描いて、高い鴟尾のまわりを啼きながら、・・・ 芥川竜之介 「羅生門」
・・・毎日きれいに照らす日の目も、毎晩美しくかがやく月の光も、青いわか葉も紅い紅葉も、水の色も空のいろどりも、みんな見えなくなってしまうのです。試みに目をふさいで一日だけがまんができますか、できますまい。それを年が年じゅう死ぬまでしていなければな・・・ 有島武郎 「燕と王子」
・・・ 手当も出来ないで、ただ川のへりの長屋に、それでも日の目が拝めると、北枕に水の方へ黒髪を乱して倒れている、かかる者の夜更けて船頭の読経を聞くのは、どんなに悲しかろう、果敢なかろう、情なかろう、また嬉しかろう。「妙法蓮華経如来寿量品第・・・ 泉鏡花 「葛飾砂子」
・・・妙に底冷えがして、おなかが痛くて困っていたら、私はまた外に出されて日の目を見る事が出来ました。こんどは私は、医学生の顕微鏡一つとかえられたのでした。私はその医学生に連れられて、ずいぶん遠くへ旅行しました。そうしてとうとう、瀬戸内海のある小さ・・・ 太宰治 「貨幣」
・・・厠へ出る縁先の小庭に至っては、日の目を見ぬ地面の湿け切っていること気味わるいばかりである。しかし先生はこの薄暗く湿った家をば、それがためにかえってなつかしく、如何にも浮世に遠く失敗した人の隠家らしい心持ちをさせる事を喜んでいる。石菖の水鉢を・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・左の土手から古榎が無遠慮に枝を突き出して日の目の通わぬほどに坂を蔽うているから、昼でもこの坂を下りる時は谷の底へ落ちると同様あまり善い心持ではない。榎は見えるかなと顔を上げて見ると、あると思えばあり、無いと思えば無いほどな黒い者に雨の注ぐ音・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・「海一つ向へ渡ると日の目が多い、暖かじゃ。それに酒が甘くて金が落ちている。土一升に金一升……うそじゃ無い、本間の話じゃ。手を振るのは聞きとも無いと云うのか。もう落付いて一所に話す折もあるまい。シワルドの名残の談義だと思うて聞いてくれ。そ・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
・・・ 彼の女のために己は蒸溜器の底に日の目をも見ずに、かたく、くらく、つめたく、こびりついて居るピッチのようにしてでも生きて居なければならない」 男は心にそう思って自分を命にかけて思って居る、何も彼もささげつくした女の名をこころでよんで・・・ 宮本百合子 「死に対して」
出典:青空文庫