・・・あとには、吉田忠左衛門、原惣右衛門、間瀬久太夫、小野寺十内、堀部弥兵衛、間喜兵衛の六人が、障子にさしている日影も忘れたように、あるいは書見に耽ったり、あるいは消息を認めたりしている。その六人が六人とも、五十歳以上の老人ばかり揃っていたせいか・・・ 芥川竜之介 「或日の大石内蔵助」
・・・門には竹が立てられたり、座敷には蓬莱が飾られたりしても、お蓮は独り長火鉢の前に、屈托らしい頬杖をついては、障子の日影が薄くなるのに、懶い眼ばかり注いでいた。 暮に犬に死なれて以来、ただでさえ浮かない彼女の心は、ややともすると発作的な憂鬱・・・ 芥川竜之介 「奇怪な再会」
・・・ただ杉や竹の杪に、寂しい日影が漂っている。日影が、――それも次第に薄れて来る。――もう杉や竹も見えない。おれはそこに倒れたまま、深い静かさに包まれている。 その時誰か忍び足に、おれの側へ来たものがある。おれはそちらを見ようとした。が、お・・・ 芥川竜之介 「藪の中」
・・・昼中の日影さして、障子にすきて見ゆるまで、空蒼く晴れたればこそかくてあれ、暗くならば影となりて消えや失せむと、見る目も危うく窶れしかな。「切のうござんすか。」 ミリヤアドは夢見る顔なり。「耳が少し遠くなっていらっしゃいますから、・・・ 泉鏡花 「誓之巻」
・・・ 祖母が縫ってくれた鞄代用の更紗の袋を、斜っかいに掛けたばかり、身は軽いが、そのかわり洋傘の日影も持たぬ。 紅葉先生は、その洋傘が好きでなかった。遮らなければならない日射は、扇子を翳されたものである。従って、一門の誰かれが、大概洋傘・・・ 泉鏡花 「栃の実」
・・・ わずかに畳の縁ばかりの、日影を選んで辿るのも、人は目をみはって、鯨に乗って人魚が通ると見たであろう。……素足の白いのが、すらすらと黒繻子の上を辷れば、溝の流も清水の音信。 で、真先に志したのは、城の櫓と境を接した、三つ二つ、全国に・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
・・・これからどうしてもおとよの話に移る順序であれど、日影はいつしかえん側をかぎって、表の障子をがたぴちさせいっさんに奥へ二人の子供が飛びこんできた。「おばあさんただいま」「おばあさんただいま」 顔も手も墨だらけな、八つと七つとの重蔵・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・三時頃の薄い日影が庭半分にさしていて、梅の下には蕗の薹が丈高くのびて白い花が見えた。庭はまだ片づいていてそんなに汚くなかった。物置も何もなく、母家一軒の寂しい家であった。庭半分程這入って行くと、お松は母と二人で糸をかえしていて、自分達を認め・・・ 伊藤左千夫 「守の家」
・・・光治は、しばらくそこに立って、じいさんを見送っていますと、その姿は日影の彩るあちらの森の方に消えてしまったのでありました。 その日から光治は野に出て、一人でその笛を吹くことをけいこしたのであります。その笛はじつに不思議な笛で、いろいろな・・・ 小川未明 「どこで笛吹く」
・・・溪の風景は朝遅くまでは日影のなかに澄んでいる。やっと十時頃溪向こうの山に堰きとめられていた日光が閃々と私の窓を射はじめる。窓を開けて仰ぐと、溪の空は虻や蜂の光点が忙しく飛び交っている。白く輝いた蜘蛛の糸が弓形に膨らんで幾条も幾条も流れてゆく・・・ 梶井基次郎 「冬の蠅」
出典:青空文庫