・・・河を隔てて木の間隠れに白くひく筋の、一縷の糸となって烟に入るは、立ち上る朝日影に蹄の塵を揚げて、けさアーサーが円卓の騎士と共に北の方へと飛ばせたる本道である。「うれしきものに罪を思えば、罪長かれと祈る憂き身ぞ。君一人館に残る今日を忍びて・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・庭下駄を穿いて、日影の霜を踏み砕いて、近づいて見ると、公札の表には、この土手登るべからずとあった。筆子の手蹟である。 午後三重吉から返事が来た。文鳥は可愛想な事を致しましたとあるばかりで家人が悪いとも残酷だともいっこう書いてなかった。・・・ 夏目漱石 「文鳥」
・・・格子を洩れて古代の色硝子に微かなる日影がさし込んできらきらと反射する。やがて煙のごとき幕が開いて空想の舞台がありありと見える。窓の内側は厚き戸帳が垂れて昼もほの暗い。窓に対する壁は漆喰も塗らぬ丸裸の石で隣りの室とは世界滅却の日に至るまで動か・・・ 夏目漱石 「倫敦塔」
・・・どこからともなく、空の日影がさして来て、宇宙が恐ろしくひっそりしていた。 長い、長い時間の間、重吉は支那兵と賭博をしていた。黙って、何も言わず、無言に地べたに坐りこんで……。それからまた、ずっと長い時間がたった……。目が醒めた時、重吉は・・・ 萩原朔太郎 「日清戦争異聞(原田重吉の夢)」
・・・秋の季節になっていた。都会から来た避暑客は、既に皆帰ってしまって、後には少しばかりの湯治客が、静かに病を養っているのであった。秋の日影は次第に深く、旅館の侘しい中庭には、木々の落葉が散らばっていた。私はフランネルの着物を着て、ひとりで裏山な・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・その文に曰く橘曙覧の家にいたる詞おのれにまさりて物しれる人は高き賤きを選ばず常に逢見て事尋ねとひ、あるは物語を聞まほしくおもふを、けふは此頃にはめづらしく日影あたたかに久堅の空晴渡りてのどかなれば、山川野辺のけしきこよな・・・ 正岡子規 「曙覧の歌」
・・・第一おらの畑ぁ日影にならな。」 虔十は顔を赤くして何か云いたそうにしましたが云えないでもじもじしました。 すると虔十の兄さんが、「平二さん、お早うがす。」と云って向うに立ちあがりましたので平二はぶつぶつ云いながら又のっそりと向う・・・ 宮沢賢治 「虔十公園林」
・・・第一の精霊 サテサテマア、何と云うあったかな事だ、飛切りにアポロー殿が上機嫌だと見えるワ。日影がホラ、チラチラと笑って御ざる。第二の精霊 アポロー殿が上機嫌になりゃ私共までいや、世の中のすべてのものが上機嫌じゃがその中にたっ・・・ 宮本百合子 「葦笛(一幕)」
・・・ 二月十六日 春の日影 Feb. 23rd.巨大な砂時計の玻璃の漏斗から刻々をきざむ微かな砂粒が落るにつれ我工房の縁の辺ゆるやかに春の日か・・・ 宮本百合子 「海辺小曲(一九二三年二月――)」
・・・室内の高い長押にちらちらする日影。時計の眩ゆい振子の金色。縁側に背を向け、小さな御飯台に片肱をかけ、頭をまげ、私は一心に墨を磨った。 時計のカチ、カチ、カチカチいう音、涼しいような黒い墨の香い。日はまあ何と暖かなのだろう。「ああちゃ・・・ 宮本百合子 「雲母片」
出典:青空文庫