・・・一しきりの沈黙の時が過ぎて、各自の無事を思う心がそれに変った。日頃台所にいて庖丁に親しむことの好きなお三輪は、こういう日にこそ伜や親戚を集め、自分の手作りにしたもので一緒に記念の食事でもしたいと思ったが、それも叶わなかった。親戚も多く散り散・・・ 島崎藤村 「食堂」
・・・青扇が日頃、へんな自矜の怠惰にふけっているのを真似て、この女も、なにかしら特異な才能のある夫にかしずくことの苦労をそれとなく誇っているのにちがいないと思ったのである。爽快な嘘を吐くものかなと僕は内心おかしかった。けれどこれしきの嘘には僕も負・・・ 太宰治 「彼は昔の彼ならず」
・・・の韜晦の一語がひょいと顔を出さなければならぬ事態に立ちいたり、かれ日頃ご自慢の竜頭蛇尾の形に歪めて置いて筆を投げた、というようなふうである。私は、かれの歿したる直後に、この数行の文章に接し、はっと凝視し、再読、三読、さらに持ち直して見つめた・・・ 太宰治 「狂言の神」
・・・僕たち、二三の友人、つね日頃、どんなに君につくして居るか。どれだけこらえてゆずってやって居るか。どれだけ苦しいお金を使って居るか。きょうの君には、それら実相を知らせてあげたい。知ったとたんに、君は、裏の線路に飛び込むだろう。さなくば僕の泥足・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・此の人は其後陸軍士官となり日清戦争の時、血気の戦死を遂げた位であったから、殺戮には天性の興味を持って居たのであろう。日頃田崎と仲のよくない御飯焚のお悦は、田舎出の迷信家で、顔の色を変えてまで、お狐さまを殺すはお家の為めに不吉である事を説き、・・・ 永井荷風 「狐」
・・・母親は日頃娘がひいきになるその返礼という心持ばかりでなく、むかしからの習慣で、お祭の景気とその喜びとを他所から来る人にも頒ちたいというような下町気質を見せたのであろう。日頃何につけても、時代と人情との変遷について感動しやすいわたくしには、母・・・ 永井荷風 「草紅葉」
・・・先生はもう一ツ、胸にあまる日頃の思いをおなじ置炬燵にことよせて、春水が手錠はめられ海老蔵は、お江戸かまひの「むかし」なら、わしも定めし島流し、硯の海の波風に、命の筆の水馴竿、折れてたよりも荒磯の、道理引つ込む無理の世は、今もむかしの夢の・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・若人はたすきりりしくあやどりて踊り屋台を引けば上にはまだうら若き里のおとめの舞いつ踊りつ扇などひらめかす手の黒きは日頃田草を取り稲を刈るわざの名残にやといとおしく覚ゆ。 刈稲もふじも一つに日暮れけり 韮山をかなたとばかり晩靄の間・・・ 正岡子規 「旅の旅の旅」
・・・それと一緒に、日頃の紋切型の教育が教えこんでいる貞操という考えの混乱もおこって、彼女は啜泣きながらお祖母さんの手にすがって、「ねお祖母さん、じゃ人は一生に二度人を愛したり結婚したり出来るものなの? おお! では貞操っていうのは、どういうもの・・・ 宮本百合子 「雨の昼」
・・・ 日頃あれほど粗暴な群集も、その場からちっとも動かず、カラリと開いているドアの方に注意をこらした。「ぼーっとしているねえ、みんな」 そのうち、その電車は駛り去った。次に、又京浜が来て、私どもは、揉み込まれた。 上野へ来た。「・・・ 宮本百合子 「一刻」
出典:青空文庫