・・・頃は旧暦の二月、田舎では年中最も手すきな時だ。問題に趣味のあるだけ省作の離縁話はいたるところに盛んである。某々がたいへんよい所へ片づいて非常に仕合せがよいというような噂は長くは続かぬ。しかしそれが破縁して気の毒だという場合には、多くの人がさ・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・ 旧暦のお正月の頃で、港町の雪道は、何か浮き浮きした人の往き来で賑わっていた。曇っていた日であったが、割にあたたかで、雪道からほやほや湯気が立ち昇っている。 すぐ右手に海が見える。冬の日本海は、どす黒く、どたりどたりと野暮ったく身悶・・・ 太宰治 「母」
・・・珍しい日本晴。旧暦十六夜の月が赤く森から出る。八月二十八日 晴、驟雨 朝霧が深く地を這う。草刈。百舌が来たが鳴かず。夕方の汽車で帰る頃、雷雨の先端が来た。加藤首相葬儀。八月二十九日 曇、午後雷雨 午前気象台で藤原君の・・・ 寺田寅彦 「震災日記より」
・・・肺結核でそこに転地しているある人を見舞いに行って一晩泊まった時がちょうど旧暦の盆の幾日かであった。蒸し暑い、蚊の多い、そしてどことなく魚臭い夕靄の上を眠いような月が照らしていた。 貴船神社の森影の広場にほんの五六人の影が踊っていた。どう・・・ 寺田寅彦 「田園雑感」
・・・或日父母に従って馬車を遠く郊外に馳せ、柳と蘆と桑ばかり果しなくつづいている平野の唯中に龍華寺という古刹をたずね、その塔の頂に登った事を思返すと、その日はたしかに旧暦の九月九日、即ち重陽の節句に当っていたのであろう。重陽の節に山に登り、菊の花・・・ 永井荷風 「十九の秋」
・・・昼間のような月が照ってやがて旧暦の盆が来た。太十はいつも番小屋に寝た。赤も屹度番小屋の蔭に脚を投げ出して居た。 或日太十は赤がけたたましく吠えたのを聞いて午睡から醒めた。犬は其あとは吠えなかった。太十はいつでも犬に就いて注意を懈らない。・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・「旧暦八月十七日の晩、おらは酒のんで早く寝た。おおい、おおいと向こうで呼んだ。起きて小屋から出てみたら、お月さまはちょうどそらのてっぺんだ。おらは急いで舟だして、向こうの岸に行ってみたらば、紋付を着て刀をさし、袴をはいたきれいな子供だ。・・・ 宮沢賢治 「ざしき童子のはなし」
* 旧暦の六月二十四日の晩でした。 北上川の水は黒の寒天よりももっとなめらかにすべり獅子鼻は微かな星のあかりの底にまっくろに突き出ていました。 獅子鼻の上の松林は、もちろんもちろん、まっ黒でし・・・ 宮沢賢治 「二十六夜」
・・・「さっきの話は旧暦の除夜だったと君は云ったから、丁度今日が七回忌だ。」 小川は黙って主人の顔を見た。そして女中の跡に附いて、平山と並んで梯子を登った。 二階は西洋まがいの構造になっていて、小さい部屋が幾つも並んでいる。大勢の客を留め・・・ 森鴎外 「鼠坂」
出典:青空文庫