・・・そして、みんなと別れて、一人で、あちらにぶらり、こちらにぶらり、千鳥足になって、広い野原を、星明かりで歩いてきたのだ。」と、おじいさんは話しました。 みんなは、不思議なことがあったものだと思いました。「よく星明かりで、雪道がわかりま・・・ 小川未明 「大きなかに」
・・・青味がちな月明りはまるで夜明けかと思うくらいであった。しかし、まだ夜が明けていなかった。 やがて軽井沢につき、沓掛をすぎ、そして追分についた。 薄暗い駅に降り立つと、駅員が、「信濃追分! 信濃追分!」 振り動かすカンテラの火・・・ 織田作之助 「秋の暈」
・・・千日前から法善寺境内にはいると、そこはまるで地面がずり落ちたような薄暗さで、献納提灯や灯明の明りが寝呆けたように揺れていた。境内を出ると、貸席が軒を並べている芝居裏の横丁だった。何か胸に痛いような薄暗さと思われた。前方に光が眩しく横に流れて・・・ 織田作之助 「雨」
・・・上塗りのしてない粗壁は割れたり落ちたりして、外の明りが自由に通っている。「狐か狸でも棲ってそうな家だねえ」耕吉はつくづくそう思って、思わず弱音を吐いた。「何しろ家賃が一カ月七十銭という家だからな、こんなもんだろう」と老父は言ったが、・・・ 葛西善蔵 「贋物」
・・・ 薄明りの平野のなかへ、星水母ほどに光っては消える遠い市の花火。海と雲と平野のパノラマがいかにも美しいものに思えた。「花は」「Flora.」 たしかに「Flower.」とは言わなかった。 その子供といい、そのパノラマとい・・・ 梶井基次郎 「城のある町にて」
・・・ 為吉は竈の前につくばって焚き火の明りでそれを見たが、老いた眼には分らなかった。彼は土足のまゝ座敷へ這い上ってランプの灯を大きくした。「何ぞえいことが書いてあるかよ?」おしかは為吉の傍へすりよって訊ねた。「どう云うて来とるぞいの・・・ 黒島伝治 「老夫婦」
・・・むしろその暗やみへ向かって飛び込んで行くと、ある時間の後にはどこからか明かりがさして来て夜の明けるようになるのであった。 同じように人から来る手紙の中の言葉などにもかなりに敏感になっていた。またたとえば絵はがきの絵や、見舞いの贈り物など・・・ 寺田寅彦 「球根」
・・・しかし自分の経験によると、暴風の夜にかすかな空明りに照らされた木立を見ていると烈風のかたまりが吹きつける瞬間に樹の葉がことごとく裏返って白っぽく見えるので、その辺が一体に明るくなるような気のすることがある。そんな現象があるいは光り物と誤認さ・・・ 寺田寅彦 「颱風雑俎」
・・・私は左手の漂渺とした水霧の果てに、虫のように簇ってみえる微かな明りを指しながら言った。「ちがいますがな。大阪はもっともっと先に、微かに火のちらちらしている他ですがな」そう言って彼はまた右手の方を指しながら、「あれが和田岬です」「・・・ 徳田秋声 「蒼白い月」
・・・楽しき日は落ちて、楽しき夕幕の薄明りの、尽くる限りはあらじと思う。その時に戴けるはこの冠なり」と指を挙げて眉間をさす。冠の底を二重にめぐる一疋の蛇は黄金の鱗を細かに身に刻んで、擡げたる頭には青玉の眼を嵌めてある。「わが冠の肉に喰い入るば・・・ 夏目漱石 「薤露行」
出典:青空文庫