・・・青く濁った水の面は鏡の如く両岸の土手を蔽う雑草をはじめ、柳の細い枝も一条残さず、高い空の浮雲までをそのままはっきりと映している。それをば土手に群る水鳥が幾羽となく飛入っては絶えず、羽ばたきの水沫に動し砕く。岸に沿うて電車がまがった。濠の水は・・・ 永井荷風 「深川の唄」
・・・或る時、女中が杓文字の影を壁に映した。僕はそれを見て卒倒し、二日間も発熱して臥てしまった。幼年時代はすべての世界が恐ろしく、魑魅妖怪に満たされて居た。 青年時代になってからも、色々恐ろしい幻覚に悩まされた。特に強迫観念が烈しかった。門を・・・ 萩原朔太郎 「僕の孤独癖について」
・・・ 湖は、底もなく澄みわたった空を映して、魔の色をますます濃くした。「屠牛所の生き血の崇りがあの湖にはあるのだろう」 一週間ぐらいは、その噂で持ち切っていた。 セコチャンは、自分をのみ殺した湖の、蒼黒い湖面を見下ろす墓地に、永・・・ 葉山嘉樹 「死屍を食う男」
・・・民主なる文学ということは、私たち一人一人が、社会と自分との歴史のより事理にかなった発展のために献身し、世界歴史の必然な働きをごまかすことなく映しかえして生きてゆくその歌声という以外の意味ではないと思う。 そして、初めはなんとなく弱く、あ・・・ 宮本百合子 「歌声よ、おこれ」
・・・『婦人之友』の調査で、うどんがたべたいものの最下位にあるのも実際を映している。そんなに、この頃はうどん、うどんなのだが、そのうどんに絡んで人情の機微が動く姿も可笑しく悲しい。 或る小学校に三人の女先生がいた。ずっと仲よしで、今年は一・・・ 宮本百合子 「「うどんくい」」
・・・芸術の素質として民族に特有なものは、いつも具体的であって、それがさけることが出来ない歴史の波、社会の発展の段階の明暗を映していることが、十分芸術家の生活感情として把握されなければならないのだろう。 音楽の歴史と諷刺のことも何となく知りた・・・ 宮本百合子 「音楽の民族性と諷刺」
・・・ 丁度その時、鏡のような廻廊から、立像を映して近寄って来るルイザの桃色の寝衣姿を彼は見た。 彼は起き上ることが出来なかった。何ぜなら、彼はまだ、ハプスブルグの娘、ルイザに腹の田虫を見せたことがなかったから。ルイザは呆然として、皇帝ナ・・・ 横光利一 「ナポレオンと田虫」
・・・そして、梶自身の愁いの色をそれと比べて見ることは、失われた門標の、彼を映し返してみせてくれる偶然の意義でもあった。 ある日の午後、梶の家の門から玄関までの石畳が靴を響かせて来た。石に鳴る靴音の加減で、梶は来る人の用件のおよその判定を・・・ 横光利一 「微笑」
・・・彼は自分の醜い姿を水鏡に映して見て、抑え難い歓喜を感じるらしい。彼はその歓喜を衆人の前に誇示して、Faun らしく無恥に有頂天に踊り回るのである。私たちに嘔吐を催させるものも、彼には Extase を起こす。私たちが赤面する場合に彼は哄笑す・・・ 和辻哲郎 「転向」
・・・座敷に通ってからふと床の間を見ると、床柱にかかった鼻まがりの天狗の面が掛け物の上に横面黒像を映している。珍しい面だと思って床柱を見たが、そこにはそんなに大きな面は掛かっていない。では小さい面が光のぐあいで大きく映ったのかしらと床柱の側まで行・・・ 和辻哲郎 「夏目先生の追憶」
出典:青空文庫