・・・それ等は実に今日まで私の思い出を曇らせる雲翳 街を走る電車はその晩電車固有の美しさで私の眼に映りました。雨後の空気のなかに窓を明け放ち、乗客も程よい電車の内部は、暗い路を通って来た私達の前を、あたかも幸福そのものが運ばれて其処にあるのだ・・・ 梶井基次郎 「橡の花」
・・・翁の影太く壁に映りて動き、煤けし壁に浮かびいずるは錦絵なり。幸助五六歳のころ妻の百合が里帰りして貰いきしその時粘りつけしまま十年余の月日経ち今は薄墨塗りしようなり、今宵は風なく波音聞こえず。家を繞りてさらさらと私語くごとき物音を翁は耳そばだ・・・ 国木田独歩 「源おじ」
・・・南は山影暗くさかしまに映り、北と東の平野は月光蒼茫としていずれか陸、いずれか水のけじめさえつかず、小舟は西のほうをさして進むのである。 西は入り江の口、水狭くして深く、陸迫りて高く、ここを港にいかりをおろす船は数こそ少ないが形は大きく大・・・ 国木田独歩 「少年の悲哀」
・・・馬ようやく船に乗りて船、河の中流に出ずれば、灘山の端を離れてさえさえと照る月の光、鮮やかに映りて馬白く人黒く舟危うし。何心なくながめてありしわれは幾百年の昔を眼前に見る心地して一種の哀情を惹きぬ。船回りし時われらまた乗りて渡る。中流より石級・・・ 国木田独歩 「小春」
・・・出品の中にてよく見受くる田舎町の一つなれば、茅屋と瓦屋と打ち雑りたる、理髪所の隣に万屋あり、万屋の隣に農家あり、農家の前には莚敷きて童と猫と仲よく遊べる、茅屋の軒先には羽虫の群れ輪をなして飛ぶが夕日に映りたる、鍛冶の鉄砧の音高く響きて夕闇に・・・ 国木田独歩 「わかれ」
・・・と聞いたのは、吾が夫と中村という人とは他の教官達とは全く出が異っていて、肌合の職人風のところが引装わしてもどこかで出る、それは学校なんぞというものとは映りの悪いことである。それを仲の好い二人が笑って話合っていた折々のあるのを知っていたか・・・ 幸田露伴 「鵞鳥」
・・・濃い花の影は休みの時間に散歩する教師等の顔にも映り、建物の白い壁にも映った。学生等は幹に隠れ、枝につかまり、まるで小鳥かなんどのようにその下を遊び廻って戯れた。「広岡先生も随分関わない人ですネ」 と高瀬が桜井先生と正木大尉との居る前・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・八月の日の光は窓の外に満ちて、家々の屋根と緑葉とに映り輝いて、この東京の都を壮んに燃えるように見せた。見るもの聞くものは烈しく原の心を刺激したのである。原は相川と一緒に電車を下りた時、馳せちがう人々の雑沓と、混乱れた物の響とで、すこし気が遠・・・ 島崎藤村 「並木」
・・・踊り屋台、手古舞、山車、花火、三島の花火は昔から伝統のあるものらしく、水花火というものもあって、それは大社の池の真中で仕掛花火を行い、その花火が池面に映り、花火がもくもく池の底から涌いて出るように見える趣向になって居るのだそうであります。凡・・・ 太宰治 「老ハイデルベルヒ」
・・・始めはモーリスが店の三枚鏡の一枚一枚に映りながらこれを歌う。この歌が街頭へ飛び出して自動車のおやじから乗客の作曲家に伝染し、この男が汽車へ乗ったおかげで同乗の兵隊に乗り移る。兵隊が行軍している途中からこの歌の魂がピーターパンの幽霊のような姿・・・ 寺田寅彦 「音楽的映画としての「ラヴ・ミ・トゥナイト」」
出典:青空文庫